人と、気を遣いながらコミュニケーションをとる。人は日々そのような事をしているわけです。
自分は自分、人は人、その間には境界があって、自分は人を思い通りにはできないし、人は自分を思い通りにはできないわけで、互いにそのようにコントロールし合いたいわけでもないし、でも、関わりたいわけです。
人は主には、人と関わる時、言葉を使うわけですが、これによって、何とか互いの心を通わせ合いたいわけです。
そもそも、自分自身が何を感じ、何を思い、何を考えているのか、そのような事すらもよく分からない中で、さらに人は、自分以外の誰かと、心を通わせ合いたいわけで、その論理では、自分自身の事すらもつかめていない自分が他の人と話をしてつながろうとするのは、無理ではなかろうかと思ってしまいます。
それでも、人は人と心を通わせ合いたいと思うわけで、それは自分の心を自分ではどうにもできないから他人に何とかしてもらおうという試みかもしれないし、一方で、自分の事ではないのに、人の事に首を突っ込んで、人に関わっていきたい、さらに突っ込んで言うと、人の事にお節介したい、言い方を変えれば、人の事が気になってどうにかしたい、そういう試みなのかもしれません。
ただ、手段としては、言葉を使って人とコミュニケーションをとる事は出来るわけで、自分の心の状態がつかめていようがいなかろうが、また、人の事が大事であろうか無かろうか、話はできるわけです。
物理的に、言葉を発するとき、目に入ってくるのは、自分より他人であり、鏡でも使わない限り、自分の顔を見る事はできないわけで、その意味で、自分より人に対しての方が、話はしやすいし、コミュニケーションをとろうとしやすいわけです。
その意味で、話をする、あるいは、コミュニケーションをとるという事は、自分と他人の間で為される事が自然であり、それにより発達したであろうとも考えられます。
人間一人で、言葉は生み出せなかったであろうし、当然、自分一人で話をする事でコミュニケーションをとる事を発達させなかったであろうと思います。
それでも、根源的には、自分自身の心をどうにかしたいわけで、自分の心が他人の心と何かを通わせ合ったり、共感しあったり、そういう事をしたいわけです。
自分と人とは境界がありながら、一体化する事は、物理的にも無いわけで、それでも、言葉を駆使して、コミュニケーションを駆使して、何かを話して、つながろうとするわけです。