人は、意外と自分の事がよくわかっていなくて、自分は一体何をすると喜ぶのか、何をすると充実を感じるのか、そういった事をずっと考えているような気がします。
自分が何をすると喜ぶのか、そういった事が分かっているなら、いつでもそれを自分にさせてあげたいわけですが、それが分からないものだから、いつも自分の事について考えてしまうわけで、それで、思いつく限りの事を色々とさせてみるわけです。
そもそも、自分なんてものは自分の中にはじめから無いわけで、何とか自分を形成させようにして、パッチワーク的にでも何でも自分を形作るようにして、何かをさせてあげるわけです。
ですが、日常を過ごしていると、自分に何かをやらせてあげる前に、やらないといけない事があるような気がして、そんな事をさせてあげる時間なんて無いような気がしてきます。
そして、そのようにして日常を送っていると、自分にはやりたい事なんて無いのではないか、そう思い込んでしまうわけです。
一方で、何か、自分がやりたい事はこれなのではないか、また、これをやれば自分は喜びを感じるのではないか、そう思って色々と自分にさせてみようとするわけですが、意外とそれを続けることができず、自分が何をしたいのか、あるいは、自分に何をさせてあげたらいいか、分からないままになってしまうわけです。
そういった事をああでもない、こうでもないと、自分にさせてみてはやめ、新たに見つけては自分にさせてみて、そういった事の中から、何か自分っぽいものが見つかったりするわけです。
それが、確かに自分がやりたい事なのか、自分が喜びを感じるのか、分からないけれども、喜びを感じた瞬間があったなら、それは自分にさせてあげる価値があるのかもしれないわけで、そのようにして、そういった事を積み重ねていくわけです。
それでも、一体自分が何をさせてあげると喜ぶのか、はっきりとは分からないけど、模索は続くわけで、そのようにしてきっと、自分自身を作られていくわけです。自分自身になっていくわけです。
それ以前は、まだ自分になっていないのかもしれません。自分なんてはじめから無いわけですから。ですが、自分に何かをさせて、また、偶然何かをやって、喜びや充実の気持ちに気付き、それを続けてやらせてみる。
そのようにして、少しずつ自分自身の片鱗が見えてきて、輪郭が浮かび上がってくるのかもしれません。きっとそのようにして、自分になっていくんです。