毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

自分にとっての真の願いは一瞬のイメージ。

自分にとっての真の願いとは、一体何なんだろうか。どんなものだろうか。

願いや望みは、自分自身の夢やビジョンにつながるようなものなのだろうか。

ビジョンと言うからには、何かビジュアルとしてのイメージのような形として現れるものだろうか。

そのように考えると、何かそれは一瞬かもしれないし、写真で撮った1枚のフレームみたいなものかもしれない。

きっと、願いとか望みとか言うわけですから、きっとそれが叶ったら、満たされた感覚になるんだと思います。

満たされたという意味では、案外それは一瞬であっても満たされる事はあるように感じます。

1枚の写真のフレームのように、1枚のイメージが自分を満たし、きっとそれだけで、幸せに包まれたような、そんな感覚なんだと思います。

何か、永遠のものを期待してしまいますが、実質的な永遠というわけでもなく、ある一瞬に満たされるような、そんなものじゃないだろうかと思うわけです。

でも、その一瞬のイメージは自分を満たしてくれるもので、そして、その一瞬という時間を永遠と感じさせてくれるような、そんな強度はあるような気がします。

例えば、自分は心地良い喫茶店でくつろぐことが大好きで、それを求めているわけです。快適な喫茶店でくつろぐのは、自分にとっての願いであるし、望みであるわけです。

そのような快適な空間は、自分の願望を示すイメージであり、ビジョンでもあり、一瞬のフレームとも言えるわけです。

ですが、その願望は、自分にとっての快適な喫茶店での空間や時間によって叶えられるとともに、確かに満たされるわけです。

それは、永遠の時間ではないかもしれませんが、自分が求めた喫茶店での快適な空間での時間は、永遠に感じられるほどに満たされるわけです。

願いや望みとは、意外とそのようなもので、それは自分の中のイメージとして現れるわけです。永遠でないかもしれないけど、その時間は永遠と感じさせてくれるわけで、満たされた時間です。

願いや望み、願望は、案外そのようなものかもしれません。大それたことではないかもしれません。ですが、そのようなものは案外心の中にあるわけです。

イメージとして、ビジョンとして、夢のようにあって、確かそれは叶えられたときに、自分を満たしてくれるわけです。永遠の時間でなくても、幸せの時間と言えるわけで、人はそのような願望を抱いて、その願望をかなえる事で確かに満たされるんです。それが願いであり、望みであり、一瞬のイメージなんです。