毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人は、完成された作品ではなく、断片を作るプロセスを楽しむ。

人は何かを作る時、完成された作品をイメージして作り始めるわけではありません。

まずは何かに手を付け、プロセスを楽しみ、そして、少し作ったら、それでいったん終わるわけです。そして、ある時また、その続きを作り始めて、気が付いたら、完成形としての作品が出来上がるわけです。

ひょっとしたら、それは完成形でもないかもしれません。未完成かもしれません。ですが、おおかた形にはなっているから、それで完成された作品としては十分かもしれません。いや、むしろ、十分なわけです。

完成形としての作品をイメージしていないのは当然であるどころか、完成形などは全く気にしていないかもしれません。

ただ、何かの“断片”を作りたいから作っているだけかもしれません。最終的な完成形は、正直どうでもいいのかもしれません。

大事な事は、その断片を作るという、プロセスかもしれません。プロセスを楽しむ事が重要で、そのプロセスを経て作り上げられる作品は、例え、それが断片だとしてもどうでもいいのかもしれません。

あるいは、どうでもいいわけではないとしても、その断片を、最終形態の一部として、断片と意識せず、むしろ、作り始める時点で最終系としてイメージしているかもしれません。

実際のところ、多段階のステップから成る完成された作品は、気が遠くなるほど遠くにあるわけで、それを今の何もない時点から作り始めようとしても、そこまで辿り着く事はできないわけです。

今の時点で設定できるゴールとしての作品は、すぐにイメージできる程度の、断片的なものにしかならないのかもしれません。

1つ何かを作れば、それで出来上がるような、プロセス数の少ない工程を経て出来上がる、その程度のものを作品としなければ、今の時点では作り始められないかもしれません。

そして、同時に、それを断片だと思っていないわけです。

実際のところは、振り返れば、それは完成形としての作品の断片であるわけですが、作り始める、あるいは、手を付け始める今の時点では、最終系であるわけです。そして、それを作り上げるのは、簡単であるわけです。

確かに、それは断片かもしれませんが、単なる断片だとしても、重要な断片であり、完成された作品の欠かせない重要なピースであり、一方で、やはり、その断片単体で、実は十分な作品であるわけです。

人はそのようにして、断片である作品を作るわけです。それが、今の時点で最終系としての作品をイメージできていなくても、作品の単なる断片を作るという事が重要なプロセスであるわけです。