人間は、何か居場所のようなものを求めている。渇望している。そのように感じます。どこかにきっとあるであろう居場所を、心の中で求めている。ですが、それがなかなか見つからない。心はずっとそれを求めているのに。
居場所は、今目の前には無いのかもしれないけど、昔はあったようにも思ったりするわけです。子供の頃に住んでいた場所、家。そこが居場所なんだと思ったりするわけです。
でも、きっとそれは昔の居場所であって、では、そこに戻ったからといって、きっと違うんです。何か、違っているんです。
その意味で、昔と今とで、時間が変わってしまうと、昔その場所が居場所であったとしても、今は違うんです。
そのように考えると、居場所とは、何が物理的な場所というではないようにも思うわけです。
それは、昔にあった、あの居場所であって、今その場所に行ってもそこは居場所ではないんです。
その意味で、“昔”という時間に、居場所は紐づいているわけです。
そして、きっと昔という時間であるわけですから、それは自分の中の記憶に関係しているようなものだと思います。
記憶は、自分の中の脳裏にあるようなもので、それは自分の中に内面にあるもの、心の内にあるもの、そういうところにあるという感じがするわけです。
そして、人は、その居場所を常に求めているわけで、常に求めているという事は、求めても辿り着けない、そのような場所が、居場所という事になるわけです。
自分の心の中に、何かぽっかりと穴が空いていて、または、空洞のようなものがあって、そこに引き込まれるわけです。
まるで、居場所はぽっかりとした穴になっていて、その中に引き込まれる引力が力となって、自分はそこに引っ張られる感じであるわけです。引っ張られるように、穴の空いた“無い”居場所を求めているのです。渇望しているわけです。
そして、その無い居場所に切なる願いがあって、切望があるわけです。
でも、その力が、求める気持ちが原動力になって、今を生きるわけです。ずっと惹きつけられる“無い”居場所への切望によって、自分は常に突き動かされるわけです。
その意味で、人は居場所を渇望しているわけですが、実は“無い”居場所を心の内に切望しながら、その気持ちとともに、感情とともに、生きるわけです。
その居場所はきっと見つからないわけで、ぽっかりと空いたまま埋まらないわけで、でも、それを力に、原動力にして、その気持ち、感情とともに生きるわけです。