ジャーナリングでは、頭の中で思った事をノートに書き綴る、まさに自由な行為と言えます。ただ思った事、頭の中に生まれた言葉を思いのまま書けばいいという意味では、ジャーナリングはとても簡単な行為です。
そもそも、何か書きたい事があるから書いているのかというと、案外そういうわけでもなく、ただ頭の中に湧いてきた事を書いているだけだったりして、でも、それで十分スッキリするわけです。
頭の中にある事を言葉として吐き出していく事で、脳内が整理されていくわけです。そして、頭がスッキリとして解放されるわけです。
これは、ある種の治療行為であり、セルフカウンセリングでもあるわけです。
とは言え、確かに、言葉は吐き出され、文章が書き綴られていくわけで、文章を書くという創造の行為でもあるわけです。
創造の行為という意味では、書き出された文章がどのようなものであれ、創作物とも言えるわけです。
ですが、ジャーナリングは、別に何か目的を持って、また、創作物を作ろうとして、ものを書いているわけではありません。
大事な事は、自由気ままに書く事であって、書かれたものの質とかそういったものは、重要ではないわけです。
ですが、そのような行為と通して、小さな気づきがあるわけで、どこかそれを求めているところもあって、実際そのような気づきがあるからこそジャーナリングを続けるわけです。
そのような新発見の資源は、頭の中にいっぱいあるわけで、ジャーナリングという行為は、ほとんどの場合、新しい発見をもたらしてくれます。
ですが、最も有効な事として、ジャーナリングは、頭の中を解放してくれるのであって、頭の中に溜まった何かしら資源が、言葉という形で書き出されるわけです。吐き出されるわけです。outされるわけです。
ジャーナリングは、そのような意味でアウトプットしてくれるわけで、それを人は根源的に求めているわけです。
アウトプットされるものは、価値ある作品である必要はなく、とにかくアウトプットされればよくて、そもそも、アウトしたい、排泄したい、という思いがあるわけです。
頭の中に入ってきた情報は、情報として頭にインプットされ、そして、インプットされたものは、アウトプットしたいわけです。
食べ物を食したら、それは消化して、排泄したいわけです。
それと同じく、ジャーナリングは排泄であり、排泄する事で人は解放されるわけです。
でも、その排泄物は、排泄の仕方を身につける事で、作品となり、創作物となり得るわけです。
排泄行為としてのジャーナリングも、繰り返され、習慣化し、学習されて、洗練されれば、それは作品となり、創作物となるわけです。
とは言え、あくまで、ジャーナリングは排泄であるわけです。