言葉は、人に何かを伝える為、何かを表現する為に使われるわけですが、それだけではありません。もっと、個人的なものとしても使われていると感じます。
確かに、言葉は学び、覚え、使いこなせるようになって、ようやく何かしら、言葉として表現できるようになります。その言葉は、他の人とも共有され、意味が伝わるわけです。
その意味で、言葉にはすでに意味があって、また、伝わるものとしての意味を成してはじめて言葉であるわけで、意味が人に伝わらなければ言葉としての意味が無いわけです。
ですが、実際には、人とのやり取りだけに言葉は使っていないし、言葉を生み出すプロセスを考えると、人に分かってもらう為に言葉を使っているだけではない事もあります。
ジャーナリングなどは、明らかに人に何かを伝える為に言葉を書いているわけではなく、自分が分かればそれで十分であるわけです。
さらに言えば、自分で何を書いているか分からなくてもジャーナリング自体は成り立つし、むしろ、他の人に対してであれ自分に対してであれ、書いている言葉の意味が分からなくても、ジャーナリングとしては問題なわけです。
言葉は、頭の中にある言葉がそのまま表現されたもの、ジャーナリングなら、ノートに書き写されたものとは限りません。
頭の中の整然とした言葉の羅列を書き写しているのではなく、ただ、思いついた言葉を書き取っているだけの場合もあるわけです。
言葉は突然現れ、もしくは、流れの中で言葉が自然と生み出され、それをノートに書き取っているわけです。
確かに、頭の中には、その資源となるものはあります。ですが、それがすでに結晶されたものとして言葉としてあるわけではなく、ジャーナリングのプロセスの中で、不意に湧いたものを書き取っているわけです。
その意味で、言葉は、書き出されるものであり、もっと言うなら、頭の中から吐き出されるものです。
確かに言葉はツール的な側面があって、言葉を学習していなければ、自然と吐き出されはしません。
それはすでに、学習され、習慣化されているからこそ、自然と言葉として吐き出されるわけです。
実際、ジャーナリングでなくても、人と話をするとき、頭の中にあるものを読み出すように話しているわけではありません。その場で即興的に生み出された言葉でやり取りをしているわけです。
その意味で、言葉は確かに頭の中の資源によるものでありますが、単に意味を伝える為というよりかは、というか、それ以前に、吐き出されるもの、自分の中から言葉としてoutされるものとも言えるわけです。