人は何か、根源的に、自ら何者かになろうとしているように思います。
そもそも、人間は産まれた最初から何者でもないわけで、発達とともに、主体的な自己が形成するわけです。とは言え、やっぱり、自分自身が何者かというのは、よく分からないわけです。
他の誰も自分自身が何者か分からないわけですが、自分も自分自身が何者か分からないわけです。
色々と自分自身について説明を試みますが、やっぱり分からないわけです。そもそも、自分自身なんて無いわけですから当然と言えば当然です。
人間は諸法無我であるわけですから、本質的に自分自身なんてわけで、確かに無いんです。
ですが、人は、自己成長をしようとするわけです。今は何者か説明はできないですが、自ら成長したいわけで、そして、いずれ何者かになりたいわけです。
マズローの自己実現の欲求というものもありますが、これもきっと、自分自身が何もわからず、それでもなおかつ、自ら何かを実現したいわけです。
また、仕事においてもキャリアデザインを描くわけで、キャリアとしての自分を自ら作ろうとするわけです。社会的肩書きも、自分を説明する為の履歴書も名刺も、ありとあらゆる名刺代わりになる何らかの社会的功績も、みんな自分自身が何者かである事を証明しようとする試みであり、何か、自分自身が何者かであるかの証明を求めているわけです。
その為に、人は、自己理解をするわけです。自分をよく知り、自分をより理解したいわけです。自分と向き合い、内省するわけです。
自己分析もそうで、自己認識を高めるわけです。
一体自分は何をしたらいいのか、一体自分は何をしようとしているのか、客観性を持って自分を眺め、そして、その不安定な自己像とともに、未完成な自分とともに生きるわけです。
自己表現も、自分自身が何者か分からないからこその自己表現かもしれなくて、でも、何かを何らかの形で自ら表現したいわけです。表現されたそれには、きっと自分の何かが示され、現れているわけです。
自己変革も、自己成長のうちで、また、常に変化を求めていて、常に自らの進化を求めているわけです。自分自身とはこういう人間という説明が出来そうな段階においても、自分を何らかのカテゴリーとして説明できそうだとしても、自分を何らかの類型に当てはめて説明したい欲求に駆られながらも、その自分に留まることなく、さらなる自分への追求を止めないわけです。
そして、いつかきっと、自分自身は、本当の自分を自分の内に発見し、そして、自分をビルドアップして作り上げ、そして、真の自分になろうとするんです。