毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

ジャーナリングという手作業が集中へ誘い、快適空間へ解放する。

人は一点に集中する事で心地良さを感じるわけですが、それは、脳内に広がった意識の散漫さが何か不快に感じられ、それを脳内で一点に集中させる事で解放されるからではないかと思います。

ジャーナリングは、そのような効果を脳内に与えてくれます。頭の中では、放っておくと、言葉が散漫に、そして、断片的に、時には、ネガティブな方向に思考とともに展開してしまうので、それが不快さやつらさにつながってしまうのです。

ジャーナリングは、目と手の作業です。

脳内の意識は、ジャーナリングを通して書き綴られた言葉を目のウィンドウを通して追っていくわけです。追っていくというか、視線が惹きつけられるわけです。これだけで、十分意識は目を通して言葉の一点に集中します。

また、手は脳と神経でつながり、意識が集まりやすい場所で、言い換えると、手や指を動かすとともに意識はその先に集中するわけです。もちろん同時に視線も手の動きの先に注がれますから、意識の集中はわけです。

その意味で、ジャーナリングという手作業は、脳内の散漫だった意識を集中に誘ってくれるわけです。

集中は、人間にとってのカギです。集中する事によって、快適さが生まれます。脳内に閉じ込められ、彷徨っていた意識が、集中という入り口、もしくは、チャネルを通して、快適な空間に導かれていくわけです。

快適な空間は、無限に広がっています。集中ととともに自由な空間に解放されます。

集中自体が没頭とともに心地良く、そして、手作業とともに集中というチャネルを通して、快適な空間と解放され、さらに、手作業による充実感や喜びも得られるわけです。

何かアウトプットする作業は、自分自身に新しさを生み、新しい体験を与えます。次々に書き綴られる言葉は、単なる同じ言葉の繰り返しではなく、新しい言葉の表現でもあります。

自ら書き綴る言葉は、小さくても、確かなアウトプットです。そして、程度はさておき、その小さなアウトプットは、新しさとともに喜びにもなります。

主観的なウェルビーイングとして、没頭や達成は重要な要素ですが、ジャーナリングという手作業は、集中とともに没頭を提供し、そして、新しい言葉の表現とともにある種の達成感を与えてくれます。人間にとっての幸せを提供するわけです。

ですから、頭の中が散漫な時は、とりあえずジャーナリングをしてみるんです。ジャーナリングという手作業が、自然と自分を集中へと誘い、そして、喜びとともに自らを快適な空間へと解放してくれます。