毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

ジャーナリングとともに自分の確かな考えを沈殿させる。

自分の確かな考えは、一体何なのか。分からなくなる時があります。

昨日はあのように考えたが、今日はこのように考えていて、考えている事がころころ変わってしまう。一体、自分にとっての確かな考えとは何なのか。よく分からないわけです。

考えるという事は、頭の中の自由な行為であり、神経細胞の可塑性とともに、色んな事を自由に柔軟に考えられるわけです。

ああでもない、こうでもないと、ありとあらゆる事を考えては悩み、そうしていくうちに、何らかの考えを得るわけです。

ですが、自分が考えている事があっちこっちに行って安定しないと、自分の考えている事が当てにならず、自分の軸が定まらないわけです。

そして、生きていく事も定まらないわけです。

その意味で、自分にとっての確かな考えというものが必要になります。

確かに、自分の考えというものは、生きていると変わります。でも、変わらない確かな考えというものもあります。

ですから、自分自身の確かな考えを知るためにも、ジャーナリングをしていくんです。

言葉を書き記していく事によって、自分の考えは言葉で表現され、ノートに書き写されていきます。

言葉としてノートに考えを刻印していくと、その考えはより自分の中に確かなものとして刻まれます。

一方で、状況や環境が変われば、また、書く事は変わります。変わった言葉は、自分の考えも変えていきます。

そのように、紆余曲折しながらも、自分の書き綴っていく言葉は、少しずつ自分の中に沈殿していきます。確かな考えとして沈殿していきます。

これはいわゆる習慣化の力ですが、ジャーナリングを続けていくうちに、自分の考えに基づく言葉は、ある時現れ、またある時に現れなくなって、それでも、時間をかけながら、少しずつ沈殿していくわけです。

それをジャーナリングとともに振り返っていく事によって、自分の何らかの考えが確かな考えである事に気が付きます。確かなものとして自分の中に沈殿しているという事が分かります。

それは、自分の心とつながり、自分の信念とともに確かな考えとして自分の中に沈殿し、固化するわけです。確かな考えは、自分の足場を固め、自分の生きる軸を確かなものにします。

確かにそれには時間がかかります。今日や明日で自分の考えが確かのものになるわけではありません。

ですが、ジャーナリングを習慣として継続していくうちに、少しずつ信念とともに自分の考えが沈殿していきます。それが自分自身の足場と生きる為の軸となってくれます。