人は色んな情報に触れて、それらを自分の頭の中に取り込んでいます。それらは断片的で、単なるモザイクにしか見えない、バラバラなものです。それらは、整理しないといけません。
情報はあまりに多く、断片的過ぎるので、自分なりに、脳内で整理する必要があって、でなければ、情報の断片に埋もれ、身動きできなくなってしまいます。もはや、人間は、それらを片付けずにはおれないわけです。
ですから、断片的な大量な情報は、自分なりに形作って使えるものにする必要があって、意味があるものにする必要があるわけです。
人間のゲシュタルトの性質が、それをそうせざるにはおかないわけです。そうする事で、形を作り、意味を成し、何かを創造するわけです。そうしなければ、形もなく、意味もなく、何も生み出さないわけです。
その為には、頭の中で、あるいは、脳内で、断片としての情報を整理する必要があります。自分なりに論理立てて、意味あるものとして形を作るんです。
そして、それらを整理する為には、脳内に、快適な空間を与えてあげる必要があります。自由にそれらの情報を触れ、並べ替えて、意味を形作るための空間です。
その空間で、大量の断片的情報を整理するには、時間も必要です。焦っていては何もできません。何にも手が付きません。十分な時間が必要なんです。
安心できる時間であり、ゆっくりとひとつずつ情報を手に取って見て、そして、並べる場所と時間が必要なんです。
それは、快適な空間であり、情報を整理する場所であり、ゆっくりと落ち着いていられる場所です。自分の居場所とも言えます。
そのような快適で、自由で、ひとつひとつ整理するだけの十分の時間があって、そこで、自分なりの形と意味をゆっくり作るんです。創造の現場でもあるわけです。
そのような空間は、ゆっくりできる自由で、想像的で、そのような活動を助ける実質的な想像の現場、あるいは、ものづくりの現場の道具としての、ジャーナリングであり、ノートであり、言葉であり、文字であるわけです。
そのような快適空間で、今十分な時間を感じて、想像し、言葉と思考を整え、理解し、解釈し、解読して、意味を作るわけです。
そして、それらに基づいて、ゆっくりと時間を使って、何かを設計し、構築し、創造するわけです。それが、ジャーナリングの創造の現場です。
ジャーナリングは、そのような快適な創造の空間を、もしくは、自分らしくいられる居場所を提供し、意味の無い断片的情報を整理して、意味ある何かを生成し、想像するわけです。