毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

自己意識と主観的時間。

人は、意識を何かに集中させる時はじめて時間を感じるように思います。一方で、時間は時間で、別に、人間が時間を認識しようがしなかろうが、それ以前からあったわけです。

ですが、人間にとっては、時間というものを認識しなければ、時間の重要性には気がつかないわけで、時間の概念なんてものは無いわけです。人間以外の動物や生物にとっても、時間という認識が無ければ、特にそれは重要ではなく、時間という感覚は無いものとしてただ生きているだけの事です。

とは言え、すでに、時間は人間や生物に関係なく流れているという事実を踏まえると、時間は重要であって、その意味で、時計の時間も、他の人と待ち合わせる時間も、電車が来る時間も、すべて、時間の概念が、より大きなものとして存在している事実がある事によって、世界は回っているわけです。

そのようなものとして、一般には、時間というものは理解されているのであって、時間と時計は常にセットであって、今であれば、時間とスマホは常にセットであるわけです。

とは言え、その時間の発見も、人間が時間というものを感じたからこそ概念として想定され、測られるようになったわけで、人間の主観的な時間の認識こそが、時間を発見したと言っていいわけです。

そして、人間には意識があって、その意識というのは、自分自身の身体に基づいて作られているのであって、まるで、自分と意識は分離しているようであり、自分自身でもあるわけです。

自分と意識が分離して感じられるのは、自分自身を客観的に見る事が出来るわけで、この自分に向けられる意識の視点が、自分と意識が分離しているように感じられる理由です。

ですが、例えば、自分に対する客観視にしても、例えば、自分の記憶を客観視するわけで、考えた事や思った事など、つまり、自分の脳内にある事について客観的になっているのであって、それは自分の手を見るようでもあり、つまり、自分の身体の一部を自分の意識が認識しているわけです。

その意味では、意識は別に自分と分離していると考えなくても、意識は自分の身体に基づいて生じているものとして考えらえるわけで、その意識が自分の身体の一部としての記憶を捉えているわけです。

そう考えると、自分は意識と重なっているわけで、自分自身は意識と言っても過言ではないくらいです。

自分自身としての意識を、自己意識と呼べるわけですが、その自己意識が、何かに集中する事を可能とするわけで、自己意識が集中している事が、自分自身が「今ある」という事を感じさせ、認識させてくれるわけです。

同時に、自己意識が「今」を感じるとともに、時間を感じるわけです。

人間は主観的な生き物であり、自己意識が認識する時間とは主観的な時間であるわけで、この時間が、自分たち人間にとって大事であるわけです。

ある面において、時間は自ら主観的に生み出しているものでもあるわけです。自己意識が主観的時間を生み出しているわけです。

時間の概念は確かに客観的なものであるものの、主観性の性質を持つ人間にとっては、時間は主観的に認識されるものであって、自分自身から、自己意識によって現象として生み出されるわけです。

これは、すでに、この意味での時間は、自分自身の一部と言ってよいほどです。

このような、主観的時間を、自分たち人間は生きているわけで、このような時間の認識が無ければ、生きている心地がしないわけです。

それも、自分自身である自己意識が為している技であり、自己意識が主観的時間を作り出し、自分の一部としての時間を感じる事で人間は生きているわけです。