人は自由を求めているわけですが、とりわけ、自由意志を求めているわけです。自分で自分の意志を決定する自由が欲しいというわけです。
自分は自分の事を自分で決めたいわけです。自分がやる事を、自分以外の人に決められたくないわけです。少なくとも、自分がやる事を自分以外の人が決めるとしたら、それを自分が納得できる事が重要です。
自分が「納得した」という事は、自分の中の論理が成立するという事であって、自分にとっての論理的思考の整合性が取れる、という事が重要だという事です。
この論理的整合がとれないと、脳にストレスがかかります。このストレスが過度になると、ストレスに耐えられなくなって、怒りがたまり、意欲が減退し、無気力になってしまうわけです。
ですから、自分にとっての論理性、論理的整合性は極めて重要であるわけです。
そして、より厳密に言うと、人は、色んな情報を処理するわけですが、これも、自分にとっての論理的整合をとるという事であって、情報処理とはそういう事であるわけです。
そして、人は、自分の意志決定に関して、自分以外の情報処理の結果により自分のやる事を決定される事を、嫌うわけです。情報処理の結果が、自分にとって論理的に整合性が取れて、納得が得られればそれでいいですが、そうでない場合は、大きなストレスになるわけです。
言葉は、人の論理的思考の結果に現れてくるものであるわけですが、人の論理的思考の結果として生み出された言葉が、いつも、自分にとっての論理性に合致するとは限りません。
ですが、言葉は操作性が高く、言葉によって、ある判断を明確化しますから、それによって、人の意思決定を容易に奪います。そして、人は、人の言葉によって自分の意思決定を妨げられる事を嫌いです。
言葉は、性質上、操作性があるわけですが、フィクションでもあるわけです。別に、真理でも、真実でも、事実でもなく、ただ、フィクションとして成立するわけです。言葉は、本当の事とは地続きではなく、独立に存在できるわけです。
ある意味において、言葉はまやかしでもあるわけです。ですが、フィクションであり、まやかしでもある言葉は、とは言え、強力でもあるわけです。
人は、根源的に、自由を求めています。自由に基づいて思考し、自由に基づいて遊び、自由に基づいて決定し、そして、自由に基づいて何もしない事を選択したいわけです。
ですから、自由意志は重要です。妨げられたくはありません。自分以外の人の論理と処理によって、そして、言葉の持つフィクションによって、自分の自由を妨げられたくはないわけです。
人は自由を切望しています。