毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人は潜在的に解放を求めている。認識の限界と主観的世界。

人は基本的に自由を求めているわけですが、言い方を変えると、解放を求めていると言えます。

解放とは、英語で言うと、リリースでもありますが、リベレーションでもあって、束縛された状態から自由になりたい、という意味合いがあるわけです。リベラルという政治用語も、そういう意味合いです。

人間には、認識の限界があります。世界に対する認識も、対象物に対する認識も、いかようにも、その本質や真理を理解する事は出来ません。

あくまで身体の感覚器官を使って知覚して、それを自分の中にイメージする形で、ゲシュタルト的な形でしか、捉えられないわけです。あくまで、そのように捉え、解釈し、それで認識していると言えるわけです。

人間はその意味で、世界に対しては、主観的に認識する事しかできないわけです。それでも、人間は自ら周りの情報を取り込んで世界を構築しているわけで、それで現実を映し出す事によって生きているわけです。

ですが、それでも、あくまで自分の中で、主観的に、現象として捉えているのであって、それを自分なりに還元する形で、世界を構築しているわけです。

言い方を変えれば、世界は実際にはもっと広く、ほぼ無限の世界であるわけですが、人間は自ら限定をかけて、能動的とは言え、ゲシュタルト的に、世界を区切って認識しているわけです。その制限された世界の中で生きているわけです。

ですから、制限された世界の中で、人間は無意識に解放を求めているわけです。制限され、束縛された世界に、アプリオリの自分の仕組みが自ら自分自身を閉じ込めているわけですから、同時に、潜在的に、自由になりたい、自分自身を解放したい、と思っているわけです。

そういうわけで、人は、いつだって、自由を求めているし、解放を求めています。誰かから、他人から、もしくは、社会からとか世界からの束縛から解放されたいという以前に、自分自身の仕組みで制限し構築した世界から、つまり、自分自身から解放されたいと願っているわけです。

人間は、自由や解放を求めています。いつだって、余地を求めているし、余白を求めています。自由なスペースを求めています。自由な空間、自由な時間を求めています。

そこには、何か備えられていなくていいんです。計画されていなくていいんです。ただの白地、無地のスペースです。雲の切れ目から差し込んでくる太陽の光の向こうに広がっているだろう無限の空間に、そして、きっとそこにはただ無限で何も無い、そんな空間に、人は解き放たれたがっているわけです。