毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

身体知。身体に基づいて行為と感情により知を生成する。

人間の知というものは、思考や言葉によるものもありますが、それらも含めて身体に基づいていると言えます。思考や言葉はあくまで知を生成する事をアシストはしていますが、基本的には、身体に基づいています。

身体に基づいているというのは、例えば、行為です。身体を使って行為自体が、人間の知の生成につながっていると言えます。身体を動かす事で何かが為されるわけですが、すでにその「何か」を為す方法としての「知」がその行為に備わっているわけです。

歩くという行為も、人間が前に進んでいく為の方法であるとともに、すでに歩くという事自体が前に進んでいく知を備えているわけです。

箸を使う行為も、ペンを使う行為も、すべて人間の知が内蔵されており、それらが為される事を、人間がわざわざ頭で「分かった」と理解するまでもなく、すでに身体は知っているわけです。歩けば前に進むし、箸を使えば食べるし、ペンを使えば書くわけです。

その意味で、習慣は、行為としての知と同じと言えます。人間はあらゆる事を無意識に行為するわけですが、まさに習慣という知を身体は体得しているわけです。そこに、わざわざ頭で「分かった」と理解する必要は無いわけです。

音楽を聴く行為もそうです。人は、ある音楽を聴く行為で、心が喜ぶわけです。音楽を聴く行為を通して心が感じるわけです。心が、音楽を聴く事を求めるわけです。

その音楽が良いか悪いかの判別に、頭は必要ないわけです。心が、感情を通して、理解しているわけです。

その意味で、行為と感情が、人間の身体による知を生成するわけです。これを、「身体知」と呼んでも良いと思います。

雨音を聴く事も、風の音を聴く事も、その「聴く」という行為が感情とともに、それを感じ、求めるわけで、そこに人間の身体知は備わっているわけで、それこそが知と言えるわけです。

人は、何か、知というものについて、頭を使って考えて、何かを判断したり、判別したり、認識したりする事を通して得ようとするわけですが、身体知はこれとはまた違う知の生成の仕組みと言えます。

人は多くの事を身体知によって行っているわけですが、それは人間の頭で、言葉を使って分かるようなものではないので、また、ある意味無意識で知っている事のようなものなので、頭では「分からない」わけです。その知を知らないわけです。

人は、身体に基づいて行為し、感情を使い、習慣化しているわけです。学習しているわけです。思考によって言葉に出来ていないわけで、無意識下では人間は身体で知っているわけです。

そのようなものが、身体知であるわけです。