人によって、自分自身にとっての快適空間というのは様々です。例えば、書く事が好きで、快適だという場合には、つまり、ジャーナリングはその人にとって快適空間になりうるわけです。
ジャーナリングでは、ペンを手で握ってノートに自由気ままに書くわけですが、もちろん、同時に何かを考えるわけです。思考を自由気ままに巡らせて、思考によって生まれてくる言葉を文字としてノートに起こしていくわけです。もしくは、言葉を文字として起こしているうちに思考が展開するわけです。いずれにしても、思考と書くことが合わさってジャーナリングが成立するわけです。
このようにして、思考や言葉、書くという事は関係しあいながら、ジャーナリングは展開していくわけで、すべての事、すべての行為が関係しながら、ジャーナリングは快適空間になりうるわけです。
ただ、ペンでノートに書くという行為は、ジャーナリングにおいては、身体的に必要な行為であり、逆に言えば、身体的不快さによって、快適さは妨げられる事にもなるです。書くという事によって、腕が疲れるとか、肩が痛いとかによって、妨げられるわけです。
その意味でも、身体的な行為というのは、快適空間に関係してくるわけです。
その意味で、ジャーナリングにおける快適空間の形成には、書くという身体的行為が欠かせないわけで、書くという身体的行為の快適さという事も、快適空間においては重要であるという事です。
行為とは、身体的行為と呼び変えてもいいわけで、思考という行為も、紛れもなく身体的行為と言えるわけです。神経系も、脳も、筋肉も、血液も、身体も、すべて関係していて、それらの総合的なものとしての行為が、例えば、思考という行為を成立させるわけで、書くという行為も同じなわけです。
また、習慣とは、身体的に作り出されるものであり、行為とも関係しているわけです。むしろ、行為と習慣は密接な関係であり、行為が習慣を成り立たせているのであり、いずれも身体によって成り立っているわけです。
その意味で、例えば、ジャーナリングは、ある人にとっては快適空間になりうるわけですが、それらを支えているものは、書く行為であって考える行為なわけです。そして、身体的習慣として、書く行為はあって、考える行為はあるわけです。
ですから、身体と行為と習慣によって快適空間は支えられているのであって、あらゆる身体的行為とそれに基づく身体的習慣という土台によって、例えば、自由気ままに思考を巡らすジャーナリングという快適空間は形成されているわけです。