毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人はとにかく快適さを求めている。

身体的な快適さはともかく、心理的な快適さを人は求めているわけです。昨今は、心理的安全性が大事である事が言われていますが、心理的な快適さとも関係があるわけです。

 

心理的と言うと、例えば人間関係ですが、人間関係は快適な関係である事が望ましいわけです。ほとんどの人は、快適な人間関係を望んでいるわけです。

 

快適な人間関係とは、ひとつに、コミュニケーションの問題があって、快適なコミュニケーションを求めているわけです。

 

人と接するとき、心地良く快適に接したいわけです。人と一緒に居る時、心地良く快適に居たいわけです。逆は嫌なんです。

 

特に、人と話をするとき、心地良く、快適に話をしたいわけです。だから、快適に話が出来る人の事が好きなわけです。話をする事が不快な人は嫌なわけです。それは明らかです。

 

心地良く快適に話が出来るというのは、自分が思っている事を、気兼ねなく話が出来るという事です。そのようにさせてくれる人の事は好きで、それをさせてくれない人の事は好きではないわけです。

 

その意味で、自分の話をちゃんと聞いてくれる人のコミュニケーションは、心地良く快適であるわけです。

 

ですが、この点には、落とし穴があって、話したい事をそのまま話して相手を不快にさせるような事になると、相手は話を聞いてくれません。それは当たり前で、人は不快な話は聞きたくないからです。その意味で、自分が快適さを望んでいるという事は、他の人の同様であるわけで、互いに快適にコミュニケーションが出来るという事が大切という事です。

 

また、人は、頭の中がごちゃごちゃしやすく、色んな事に気を取られ、気が散り、その結果、それが不快なわけです。頭の中の不快さは、ストレスですから、このストレスをどうにかしたいわけです。

 

このストレスをどうにかしたい、それが、人が望んでいる快適さにつながるわけです。つまり、頭の中を快適にしたいわけです。

 

仏教はその問題は煩悩と呼んでいますが、この煩悩をいかに滅するか、それがつまり、人が頭の中の快適さを望んでいる事という事です。

 

ストレスは、例えば、自分が抱えている問題を解決できずにいる事です。問題を解決出来れば、ストレスは解消されます。すっきりします。それは、快適さに直結します。憂いが消えます。

 

だから、問題解決は重要であるわけです。問題解決されれば、脳内はスッキリして、頭の中の不快さが消え去ります。爽快感、快適さがもたらされます。まさに至福のひとときと言っていいかもしれません。

 

それくらい、人は快適さを求めています。