心が落ち着かない時、そんな時は、思いつくままにノートに何かを書いたらいいんだと思います。書いているうちに気が付いたら心が落ち着いているんです。ジャーナリングとはそういうものだと思います。
何かよく分からない時でも、言葉に出来る事から書いていけば、何らか形になってくるものです。不明確なものが明確になってくるものです。
落ち着かない時も一緒。何か落ち着かなくて、一体何が、心が落ち着かない原因なのか分からない。明確にできれば落ち着けるのに、明確にできない。明確さは心を落ち着かせるものです。
だから、そんな時に、ジャーナリングは役に立つんです。力になるんです。言葉の力って凄いです。
人間も、言葉の無い時代はあったわけで、そんな頃というのは、言葉に出来ないわけですから、今では想像できないくらい不明確だったはず。不明確な世界を生きていたはず。
そんな不明確な、また、不安な世界の中では、人は心が落ち着かなかったはず。人々が皆心を落ち着かせていない、そんな世界とは一体どんな感じなんだろうかと思うと、怖くなってきます。
ですが、人間は言葉を獲得したわけで、もしくは、言葉を創造したわけで、これによって明確さをもたらしたわけです。
それは、人間の心を大いに落ち着かせただろうと想像します。
もちろん、言葉は正確ではありません。物事を正確に記述する事は出来ません。出来る限り、真実に迫れるかもしれませんが、真実と一致する事はありません。
その意味で、完全に言葉によって明確さを与えられるわけではありません。ですが、それでも、十分人間にとっては明確だと感じられるわけです。
それだけでも十分救いになります。心は落ち着きます。
ですから、心が落ち着かず、そして、心を落ち着かせたいなら、ジャーナリングをするのが良いんです。何を書いたっていいんです。どんな書き出しだっていいんです。最初の一文は、どんなくだらない一文でも問題ないんです。
最初はくだらない、そして、無意味な一文でも、その一文が、そのまた次の一文の橋渡しになるんです。
海に向かって、どこに向かうか分からない橋の最初の部分を作ったら、次にまたその橋から、もう少し先に橋を伸ばせるんです。
橋を伸ばしたら、またさらに伸ばせるんです。どこに向かうか分かりませんが、どこにでも向かっていけるんです。橋を少しでも作りさえすれば、その先があるんです。
言葉も同じです。何か書いてみるんです。書いてみれば、その次の一文があるんです。どこに向かうか分かりませんが、気が付いたら自由に文をつむぎ、何かが現れ、意味を為すんです。
それで十分心は何かを掴み、そして、落ち着くんです。