毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

自分自身の存在。身体と脳と、認識と感覚と創造。

自分というものの在りかというのは、おそらく人間の脳の辺りを中心にあるんだろうと想像します。自分というものの存在は、身体全体の活動のおかげで成り立ち、支えられ、そして、脳の中枢神経を中心にあるんだろうと想像します。神経細胞をはじめとした活動により立ち現れた極めて不思議な存在です。

 

そこで想像する事は、自分が存在する事の証拠のように感じられ、一方で、そこで想像される事が逆に自分自身を存在させているようにも感じられます。

 

自分自身の存在は、起きている時はそこにあり、覚醒度が高いほどそこに居るように感じられますが、眠くなり、寝てしまうと、そして、気を失ってしまうと、無くなってしまうもののようにも感じられます。その意味では、自分たちの存在は、活動している間、身体が活動している間にだけあるのかもしれません。

 

デカルト心身二元論のように、心が身体と分離しているようには思えません。自分自身の在りかを心と置き換えるなら、心は身体の活動とともに立ち現れ、身体の活動のおかげで何か対象を認識する「目」のようなものが生じている感じです。

 

自分たちの眼球から入ってくる視覚的な像は、自分自身がその像を観るという事を通して、自分自身が存在する事を確かにします。確かだと感じさせます。視覚的な像の多様性、運動性、情報量の多さ、によって自分自身は圧倒され、この「圧倒」が自分自身が存在するという事を錯覚させます。

 

ただ、この自分自身の存在を確かにする感覚は視覚だけではありません。聴覚や嗅覚、味覚、触覚などが、さらに多彩に強度を持って自分自身の存在の強度を高めます。

 

この「感覚」に圧倒される事で生じる自分自身の存在は、同時に、観察し、認識する「目」を生み出します。もちろん、目とはこの場合、耳や鼻、皮膚と同義です。この認識する目も自分自身が存在する事を確かにします。

 

想像する事は、目をつぶっていても、想像する事が出来ます。視覚的像としても想像できます。想像するとはこの場合、目を閉じて像を創造するという事です。そして同時に、その像を認識する事も出来ます。この創造と認識は、もちろん視覚だけではありません。

 

それらはみな、自分自身が存在する事の証拠のようなものであり、錯覚のようなものであり、ただただそこで観て、認識する存在としてあります。

 

これは普通に考えて、とても不思議な事であり、そんな状態で自分自身は、かろうじて存在している不確かなものです。そして、それは身体の活動のおかげでこうして存在できています。