毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

事実の断片を自己認識によりつないでいく。この事により人生を形作る。

事実の断片をつないでいく。人生とはこのようにして成り立っているもののように思います。自己認識とは、その事実の断片の連なりを自分で客観的に認識していく事であって、その事によって人生というものを形作っているように思います。

 

そして、断片と断片の間は、時間というもので埋め合わせているように感じられますが、実際には、自己認識によって連なっているように思います。

 

時間というものを、自己認識という言葉を組み合わせて表現しようとすると、時間は自己認識している間に生じたというようなニュアンスだと感じます。自己認識をしなければ時間というものは無い。時間とはそのようなものだと思います。

 

事実の断片としてのイベントを、自己認識していく事が人生であるわけですが、それが時間を生み出しているというようにも言えるわけで、この時間の生成が生命性を意味しているように思います。生命性とは、時間を生成する事とも言い換えられます。

 

その意味で、自分たち人間が持つ「時間の中を生きている」という錯覚は、生命の中で生命性が生み出されるとともに時間を生成している事に基づいているかもしれません。

 

この「自己認識」というのは、自分自身に伴って起こる事実の断片に対する認識を指しますが、そのような認識が自己認識を生み出します。また、違う言い方をすると、自己認識とは認識するもの全てであり、同時に、認識する対象はすべて主観的なものでもあります。人は常に認識しながら過ごしていますが、その認識の主体は自己であり、その事で生じるものが自己認識という事です。そのように捉えると、認識する事自体が時間を生み出しているようでもあり、時間とは認識する間の事とも言えるような気もしてきます。

 

時間というものが、実質的に存在していないとすると、自己認識とは時間と等価ではないように考えられるので、時間とは自己認識そのものではなく、自己認識によって生じる錯覚のようなものと言えるかもしれません。

 

自己認識というのは、また実質的に認識と同義のように捉えると、事実の断片とその事に関する認識の全般が人生という事になります。認識するその仕方はまた、様々な仕方があるように思うわけですが、その仕方によって人生というのは、いかように多様に、いかようにも膨らみを持つと考えられるようにも思います。

 

事実の断片は紛れもなく自分自身にとって欠かせない断片であり、それらをより良く形作っていく為にも、いかに認識していくかという事が人生にとってとても大事だと思います。