毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

この世界に適応しようとするのではなくて、自分がこの世界をどう見て生きていくかに知恵を使う。

会社員でもやってここまで生きてくると、適応だとか競争だとか、そういう社会だと信じ込んで生きてしまったなとよく思います。

 

ダーウィンの進化論みたいな例を考えると、いかに、この社会に、この世の中に、適応して生きていくか、という事を考えて生きているかと思いがちですが、実際は、いつもそのようにして生きているわけでもありません。社会に適応すると言っても、その社会の実態がどのようなものか、その社会にどのように適応するのかなんて、実際よく分かりません。

 

確かに、ある場面では上手く何らかの形で適応してここまで来たように思いますが、他の形での適応の仕方もあったように思います。「適応」は、言い出せば、色んな適応があって、どのようにでも適応できる、それが社会であり、世の中なんじゃないかって思います。世界は自分が想像しているより多様です。

 

要は、社会に適応するとか、世界に適応するとか、そういった方法は1つではなくて、色んな方法の適応があるという事です。周りを見れば明らかなように、人はこの世界で、色んな適応の仕方で生きています。どれも正解ではないように見えて、ある意味どれも正解です。だけど、さらに言い方を変えれば、どれも正解でもなくて、要は、適応するという事自体が、思い込みかもしれないという事です。適応とは大袈裟な言い方であって、そういう状況になったから、単にその状況の問題を解決して生きているというだけです。

 

実際、大事なのは、社会とか世の中とか世界とか、よく実態の分からないものに対して適応するという事ではなくて、頭を使って知恵は働かせるという事だと思います。周りを見て、学んで、知恵を使うという事です。適応というアプローチは、知恵から導かれたもののうちの1つに過ぎないという事です。

 

繰り返しですが、この社会、この世の中、この世界の実態なんてよく分からないという事です。そのよく分からない世界に対して適応しようとするという事ではなくて、自分自身がこの世界をどのように見て、どのように生きていくかという事だと思います。

 

適応というとまるでその生き方は1つの最適なものがあるように思ってしまいますけど、実際はそうではなくて、世界は多様なわけだから、生き方も多様なはずです。だから、世界に対してはどのように見ても、それは自分がどう見るかでしかないし、全ての人が想像する世界は、ひとつも同じものはないと思います。むしろ、自分が世界をどう見て生きていくかの方が、人が実際にやっている事に合っています。

 

なので、何かこの世界に必死に適応しようとして生きていくのではなくて、自分が見ている世界をどう生きていくか、知恵を使って生きていくのが良いと思います。