最近、あらためて、仏教用語の「無我」という言葉の説明を聞いて、凄く納得しました。
「無我」をインターネットで調べると、ウィキペディアには、「あらゆる事物は現象として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しない」と書いてあります。
そして、こうも書いてあります。「我(アートマン)とは、永遠に変化せず(常)・独立的に自存し(一)・中心的な所有主として(主)・支配能力がある(宰)と考えられる実在を意味する。全てのものにはこのような我がなく、全てのものはこのような我ではないと説くのを諸法無我という。」
「私」というものに置き換えて考えてみると、ここに書いてあるような我(アートマン)は基本的にはなく、そのような私という不変的な本質は存在しないというわけで、まさにそうだなと感じます。そもそも、私たち人間は無我なんだなと思います。
よく、「自己同一性」という言葉が出てきますが、自分自身の中に自己同一性を置こうとするのは、この無我の考え方からするとそもそも無理なように感じます。自分自身を自己同一性の中に押し込めようとしても、苦しさが伴います。そもそも、生き物としては、自己同一性がどうかなどという事は実際どうでもいいわけで、社会的人間としての人間特有の考え方として、自己同一性は持ち出されたんだなと思います。
自己同一性に関しては、自分自身の「物語」として、人は生きていく中で自分の人生の物語を紡ぎながら生きています。そのようにして生きていかないと、自己が失われて社会の中で生きていく事が困難になるからです。社会の中では、常に、「自分は何者なのか」という事を求められているように感じます。何者かでなければ、生きていけないように感じます。そのプレッシャーに適応しようとして、自分の物語を常に紡ぎながら、自分自身とはこういう人間なんだと本質めいたものとして捉えようとするのですが、そもそも人間は無我ですから、ジレンマが生じます。
人間は生きていきながら、発達とともに、主体的な自己を形成していきます。他者と自分は違います。それもある意味自然な事ではあります。しかしながら、これも当然、社会的人間であるが故の事であり、周りに一切の人間が居なければ、きっと主体的な自己などというのは無かったんだろうと思います。ですが、人間は人とともに生きる生き物ですから、主体的な自己は発達していきます。とは言え、そもそも人間は無我ですから、不変的な主体的自己はありません。いつだって、変容可能です。
人間はそもそも「無我」なんだと考えると、自己同一性、人生の物語、主体的自己、色んな社会的人間としての要求がありますが、それら自体大変な事なんだと納得できます。実際、自分の中の自分はいつだって変わり続けています。諸法無我という感じです。