毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

「不安」について思う事。単純に「安心」の反対語じゃない。

「不安」というものは本当にやっかいで煩わしく困ったものです。今回は、「不安」というものについて思う事を書いてみたいと思います。

 

まず、「不安」は”在る”という事です。安心という言葉がありますが、安心の反対という意味で「不安心」ではないという事です。英語では、不安の事を「anxiety」と言いますが、安心は調べると「relief」などが出てきます。「relief」とは「解放」とも言います。「解放」ですから、「安心」とは、何かから解放された状態なわけです。つまり、「不安」から解放されるわけで、単純に、不安は安心の反対語ではないんです。「安心」がまずあって、その反対語としての「不安」があるのではなくて、どちらかと言うと、まず「不安」があって、それが解放されることで「安心」がもたらされるという事です。

 

そして、「不安」は自然だという事です。人間として、普通に存在するものという事です。おかしなことではありません。「不安」という身体からのサインを感じ取って、その危機から逃れるためにあるものです。

 

また、「不安」は抱えるものです。自分が不安を抱えているものであって、自分の不安は自分以外のところにはありません。そして、基本的には、自分の身体が抱えています。

 

そしてまたやっかいなのは、「不安」は膨らむものだという事です。無意識下で膨らんでしまうものでもあり、自ら膨らませてしまうものでもあります。「不安」は増大するものであって、高まるものです。身体の生理的作用によって高めてしまうのです。

 

同じ事ですが、「不安」は取り除くものです。取り除かれるものであって、自分で積極的に取り除くものです。そうしないと、不安はずっと自分の身体に居て、場合によっては、勝手に膨らんでしまいます。そして、生理学的に、抑制するものです。ポリヴェーガル理論では、息を吐く事によって、有髄の迷走神経が心臓に対して心拍数を下げるとともに、不安を感じている身体を「抑制」させ、落ち着きをもたらします。

 

つまり、「不安」は対処するものです。何も対処しなければ不安は無くならず、ずっと在ります。ずっと自分のそばに在って、ずっと自分の身体に在ります。場合によっては、自ら膨らませてしまうので、意識的に対処して、積極的に取り除く必要があります。

 

そんなところでしょうか。「不安」とは、まず在るものであって、自然で普通な事です。そして、「不安」は自分が抱えるものであって、放っとくと膨らんでしまう場合があります。なので、ちゃんと対処して、積極的に取り除く必要があります。そのようにする事で、ようやく不安から解放されて「安心」がもたらされます。

 

仏教では、いかに不安を取り除くかを説いていますが、本当にそうだと思います。