毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

意識と無意識の収縮。「習慣としての身体」から考える。

朝から、りんごを一口サイズに包丁で切って、お皿に入れる。そして、ヨーグルトを適当にうえからかけて、それをフルーツヨーグルトとして準備する。フルーツの種類は日によって変わりますが、これが朝起きてからいつもやっている習慣です。

 

そして、今朝も、モーニング・ページと言って、ただ思った事を自由気ままに書くという、これまたいつもの習慣をやりながら、そして、7階のマンションのリビングの窓から見える景色を見る、こういうのもいつもの朝の過ごし方です。

 

朝は、基本的にドリップコーヒーを飲んでいますが、最近は妻に勧められて朝だけデカフェのコーヒーに飲んでいます。そんな感じで、心地良く過ごせる朝は、本当に最高です。

 

最近、鷲田清一の「メルロ・ポンティー可逆性」という本を読んでいて、その中に「習慣としての身体」という表現が出てきますが、何かその事が凄く気になっています。

 

コーヒーカップを持って、何気にリビングにあるチェアに足を組んで座りながら、外の景色でも見てコーヒーを飲んでいるわけですが、それらの一連の所作はほぼ無意識にやっています。自分の身体は、いわゆる自分自身の身体のみならず、部屋の中にいつものように置いてあるチェア、そして窓、持っているコーヒーカップもまるで自分の身体の一部かのように、自分の周りの空間に自然にあって、ある意味それらが周りにある事が当然で、自分自身気付いてもいないように振る舞っています。身体は、自分の身体からリビングの空間に広がっていて、その全てが、自分が無意識として備わった習慣としての身体のようです。

 

その意味では、リンゴを包丁で切るときに包丁はまるで自分の身体の一部であるようにりんごを刃でカットしていますし、ポットについている象の鼻のように伸びた先からお湯を注いでドリップコーヒーを作っていますが、その包丁の刃先や象の鼻先は自分の身体の一部のようであり、特に何の困難もなく、むしろ無意識に自然にやっています。

 

そんなときは、身体も心もリラックスしていて、何の緊張もなく、そういった事も心地良い習慣だと感じられます。

 

一方、左手でコーヒーを口に運んで飲みながら、右手の指をコーヒーカップに添えてみると、意識的に指を添えようとさせたせいか、指がコーヒーカップに触れた感触にはっきりと気付きます。

 

また、自分の右手の指で左手をなぞってみると、右手の指が左腕を触れている、また、左腕が右手の指で触れられている感触をはっきりと感じます。

 

自分の右手の指をそのような操作しているという意味では、その指は自分の身体から離れた物体、もしくは客体のようであり、触れられている左腕も単なる物体として、触れているような感じになります。

 

自分の意識を、意識的に、そのようにする事にちょっと集中して仕向けるだけで、急に自分の身体は自分の身体ではないようになってしまいます。

 

その意味では、意識を集中させてその事に気付けば、その対象は物体(客体)のようになり、無意識な状態でその事に気付かなければ、それは身体の一部(主体)のようになる感じがします。

 

それは、「意識的」と「無意識的」の収縮とも言えます。自分が意識に集中して小さい「意識の点」になったり、無意識になって自分は周りの空間に広がったりという感じです。

 

セルフケアとして自分で自分をマッサージする事や、マインドフルネス瞑想で、自分で自分に意識を向ける行為など、意識的であるという事は、それはそれで自分に心地良さや優しさをもたらします。

 

そういう意味では、意識を向けたり、また無意識に習慣に身を任せたりして、「意識と無意識の収縮」のような感じで、意識に緊張と緩和を与える事が、自分としての身体をリラックスさせて心地良い感じになるように思います。