毎日の習慣や哲学の実践をつづる40代ブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けている40代です。

世の中は基本的に「権力とその論理」で回っているんじゃないだろうかという事。

世の中というのは、基本的には、権力を中心に回っているんじゃないだろうかと思っています。それは、最近のロシアとウクライナな情勢のような国際政治的な問題を見てもそのように思うし、また、相変わらず大河ドラマが好きで今年も見ていますが、源頼朝とその周辺の御家人とのやり取りを見ていてもそう思います。

 

人類の歴史を見ると、例えば、日本だと武士の世というものがありますが、基本的には、腕力、軍事力によって統治する社会だと思います。平安時代ももちろん武力による統治はあると思いますが、武士の世と言えば、基本的に、鎌倉時代から江戸時代までであり、700年近くも武士の世を続けていたわけです。今からすると、例えば、強制的にお米を年貢として納めるという仕組みも不思議です。

 

また、現代は、大雑把に言えば、特にオバマ政権以後アメリカを中心とする普遍的価値というものがありますが、これも現代の世界の権力はどこにあるのかという事であり、アメリカにあるという事を言っています。そして、アメリカ的ルール、アメリカ的論理によって世界は統治されている、世界は回っているという事です。民主主義社会や資本主義社会というルールはその例です。

 

ここで、論理というものを持ち出したのは、言葉の仕組みという意味での論理です。言葉は、「物は言いよう」とか「言葉の綾(あや)」みたいな言われ方があって、論理とはいかようにもなってしまう側面があります。

 

言葉とは基本的に、脳の中での論理的思考から生まれてくるので、それが論理的か論理的でないかは、その人の論理の仕組み、脳の仕組みに依存します。だから、「自分にとって論理的」とは、自分が納得できた時に「論理的」と思えるものになります。だからと言って、自分にとって「論理的」と思えたものが他人にとって「論理的」と思えるかどうかは別の話です。

 

人類の歴史は、その時代、その時代で、当時の権力がその権力の論理によってその時に時代のルールを決めます。決められたルールは、権力に統治されるものは従う事になります。嫌な事でもしぶしぶ納得し、時の権力の論理をしぶしぶ受け入れながら、自らの言葉の力を借りて論理的に納得できるように理解します。そのようにして、権力の論理に基づくルールが言葉の論理によって受容され普及していきます。

 

言葉はある意味万能ですから、いかようにも使い方はあって、あらゆる論理を組み立てて説得や交渉に使えます。政治や裁判やビジネスなどの場面でも大いに使えます。いかに、人の脳が納得できるように論理的に言葉を組み立てるかがカギです。

 

一方で、世の中で起こっている事が分からないという事は、よくあると思います。「分からない」のは、その意味で当然だと思います。むしろ普通だと思います。自分以外の他の誰かが作ったルールだったりするわけで、そのルールは自分にとってあまりに関係が無い場合、本当にその論理は分かりません。

 

そういうわけで、世の中は基本的にその時の権力によって回っているんだろう、そして、その権力の論理によって回っているんだろう、というお話しでした。だから、多くのことは分からない、というのは特に問題ありません。論理と正確さは同じ意味ではありません。