毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

主観的世界として「感じる」と「フィクション」は大事

一般的に、人は、日常に広がる世界と接するとき、人間の身体の性質上、直接その世界を認識する事は出来ず、人間の持つ感覚器官や脳の機能によって自分の中に主観的な世界を創って、その主観的世界をフィルターのように通して世界と接していると考えられています。ユクスキュルという人が100年ほど前に発見した生き物の環世界は、生き物は自分たちの持つ特有の感覚の作る世界を生きている、という事を説明しているわけですが、主観的世界はその概念に本質的に似ています。

 

今回は、その主観的世界を生きているという上で、「感じる」という事と「フィクション」というものがとても大事ではないだろうか、という事について考えていこうと思います。

 

「感じる」とは何かですが、それは言葉のままで、何か接した時、熱いものを触った時に感じるという五感を通じての事であったり、つらいとか、うれしいとか、心地良いとか、何かを感情として感じるというような事であったり、そういった事はすべて「感じる」と言います。また、「感じる」とは、人間が実感として確かなもので、「感じる」強度によっては、激しい頭痛みたいな物理的なものや苦悩や悲しみのような精神的なものもあって、それらにのたうち回るほどその作用は確かなものです。実感として確かな「感じる」という事を上手くハンドルしていくという事が、人が実際に生きていくという事にとってとても重要な事になります。

 

では、「フィクション」とは何かですが、端的に言うと事実ではない事で、目の前にある実物や物質的なものではなくて、自分の中で想像して思い抱くようなものの事です。ユヴァル・ノア・ハラリなどの歴史学者は、このフィクションの重要性をよく説いています。「言葉」などは良い例で、言葉は物質的なものではないですが、他の人と言葉を共有していて、それを通して理解しあっています。そういう意味で、フィクションとは物質的なものではないですが、他の人と共有する事を可能にして、例えば、映画や本などもそれらを見て読んで想像して何かを思い抱いて、そのエンターテインメントから受けるメッセージを他の多くの人たちと共有する事が出来ます。インターネット上の情報も、実物を直接介しなくても共有できます。情報はまさにフィクションです。貨幣もそうです。国をはじめとする共同体もみんなで想像して共有する事で成り立っているフィクションです。フィクションは事実や実体はないですが、想像して他人と共有する事を可能にします。

 

その意味で、「フィクション」とは、人に対して多大な影響を持っているもので、自分の主観的な世界としてもかなりの割合を占めていると言えます。このようなフィクションの効果を使って生きている生き物は人間のような動物くらいしかなくて、もちろん他の高等な動物にもそれら特有のフィクションを持っているでしょうが、人間が作り出すフィクションはそれらと比べても計り知れないものだと思います。一方、「感じる」とは、身体に基づいた確かな実感で、そして、フィクションのような自分の中で想像して思い抱く事によって形成されるものの影響も強く受けます。映画などを見ると、「感じる」に強く影響します。言葉も「感じる」に強く影響を与えます。そういう意味で、人は、「感じる」と「フィクション」が相互作用して、混合した世界を生きているという事になります。

 

そういう事で、人は、主観的世界を生きているという意味で、「感じる」と「フィクション」がとても大事ではないかと思います。そして、人というのは、この「感じる」と「フィクション」が混合する世界を通して、人と関わり、交流しているように思います。人にとってこの「感じる」と「フィクション」が混合する世界は大きく、ほぼその世界の中を生きているほど大きなもののように思います。