毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

思考の習慣を作る事という事について考える。思考する状態と瞑想。

これまで習慣について色々と取り組んで考えてきたんですが、その中でずっと思ってきた事は、習慣というのは、頭を使って考えたり、何かを創造したりするような事には適していなくて、身体を使う習慣を行うのに適しているという事です。自分がこのところ取り組んでいる習慣は身体を使う習慣が多く、実際上手くいっているように感じます。毎日、軽い筋トレをしたり、ストレッチをしたり、体操をしたりして実に良い感じです。

 

でも、頭を使って思考する事は生きていく上で非常に重要で、考える事無しに前に進んでいく事は難しいようにも思います。そう考えていくと、やはり、思考する事を習慣にする事は本当にできないのだろうかという事が気になってきます。そこで今回は、思考の習慣を作るという事について考えてみたいと思います。

 

習慣とはどういうものかという事について振り返ってみたいと思います。習慣とは、例えば野球の素振りのようなもので、毎日のように素振りをしていると、素振りのフォームが身体に定着して、記憶化されていって、気が付いたら身体が自然に覚えるようなものです。最初は意識的に身体を動かして行っていたものが、記憶学習されて、無意識に出来るようになるような事です。そういう意味で、意識的に行っていた作業や行為を無意識下の行為にするようなものです。

 

一方、思考やそれによる新しい創造は、無意識下にやっている事ではなく、意識的に行う事です。だから、思考そのものの習慣を作る事は難しいと思います。

 

でも、例えば、私は習慣として、毎日英語の本を読んだり、その他和文の本も読んだりしています。今こうやって書いているブログも毎日書いています。これらの習慣は、頭を使っていないかというと、使っていないわけがありません。よく考えれば、家事一般、料理や洗濯など頭を使わずにやっている習慣はありません。だから、思考する事を習慣にする事は出来ないわけではないと思います。

 

以前、ブログと並行してイラストを習慣として毎日行っていたのですが、最近は、イラストは毎日の習慣としては行わなくなりました。イラストを描くのはけっこう思考を使いますし、これを、ブログと並行して毎日続けていくのは、労力的にも時間的にも難しいと感じたからです。イラストは半年以上毎日描き続けていたのですが、実際、体調を崩した日にイラストが描けなくて、それから、毎日の習慣ではなくなりました。その事に重なるように、身体を中心とする習慣を充実させてきたように思います。

 

多分、そういう事もあって、やっぱり頭を使う事を習慣にするのには向いていないんだなと思っていたわけですが、今上で言ったように、習慣は頭を使っていないわけではないですから、出来ないはずはないんです。

 

ポイントは、思考の習慣を作る為には、思考する“状態”に持っていく事を習慣にする事ではないかと思います。読書や料理も、思考する事を目的としているわけではないですが、それらの行為自体の中で思考する状態が作り上げられているように思います。読書では、文章を目で追いながら、文章から意味を読み取る行為をするとともに、途中であれこれ想像して、思考しています。料理でも、包丁で食材を切りながら、それらをどのように調理しようかと考えています。行為の中に、考える時間や余白があります。そういう意味で、行為の中に、思考する時間や余白のある状態を作り出すような習慣を行えばよいのではないかと思います。

 

例えば、瞑想では、心を静かにして、自分自身を中心として観察する状態を作り上げます。特にあれこれ考えずに、自分の色んな感覚や考えている事に意識を向けている感じです。思考せず知覚を高めているような状態です。一方で、瞑想の状態は、非常に心が穏やかで、観察して知覚する状態でありながら、思考する余白もあります。観察する事に集中できず思考してしまうという事もありますが、心が静かな中で、意識的に思考する事も出来ます。そういう意味で、瞑想の状態は、思考する習慣として活用できるように思います。

 

思考する事、頭を使う事は、人が生きていくうえで非常に重要な事だと思います。だから、もっと毎日の中に、思考するという事自体を習慣として取り入れていければと思っています。そういう意味で、瞑想の状態は良いのかもしれません。今後、瞑想による思考の習慣という事についても考えていきたいと思います。