毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

絶望と退屈と欲望のサイクル。主体的自己を形成して生きる。

人は、ある時深い絶望を感じながら苦しんで、またある時暇で退屈な時を経験して苦しみ、そして、調子が上向いてきたら、自分の欲求や欲望にしたがって前向きに生きているように思います。これらの事をハンドルしながら結局人は、それらに基づいて生きているのではないか。という事についてお話ししようと思います。

 

絶望は、非常にネガティブな感情で、つらく苦しい感覚です。生きるのに、絶望感はそれを困難にします。人にはそれぞれの絶望があると思いますが、絶望的な状態だと、未来に希望を持てず、生きる意味を見出せず、生きるのを止めたいとすら思うと思います。絶望感は、言葉で説明するのは難しく、その絶望感という感覚が、自分に絶望感を教えてくれます。でも、その絶望感は他の人と同じ絶望感かどうかは分かりません。他の人の感じている感覚は分かりませんから。でも、人は絶望感という感覚を知っています。その感覚がつらいからです。そのつらい感覚が絶望感であることを自分だけが知っています。言葉で、その絶望感を説明しようと試みることはできますが、言葉でその絶望の感覚を説明する事は難しく、絶望感と言えば他の人も分かってくれる、絶望感とはそのようなネガティブな辛い感覚です。

 

そして、退屈です。これもけっこうつらい感覚です。暇で退屈。ある種、自由の観点からは、非常に自由なのですが、人間にとって退屈という自由はなかなかに耐え難い感覚です。この退屈をどうにかしようと、ドーパミンに誘発されるような行為に耽ったりして、退屈さを紛らわそうとします。そのくらい退屈感は煩わしく、そのままではいられない状態です。

 

このような絶望感や退屈感を、人は行き来して苦しみの体験をしています。仏教では、この苦しみをいかに軽減させるかという事になります。

 

また、人は欲求や欲望にしたがって生きていようとします。絶望や退屈の世界だけで生きるのはあまりに辛く、自分にとっての快の感覚にしたがって生きようとします。食欲でも何でも、快なものを求めて生きると、心地良く生きられます。

 

それら、絶望や退屈や欲望は、いずれも感覚に基づいています。その自分だけの主観的な感覚に基づいて、絶望や退屈に苦しみ、欲望を満たしながら生きているわけです。そのような感覚に基づいた主観的な体験を人は生きています。

 

絶望感や退屈感という感覚も、しっかり向き合えば、自分が何に深く苦しんでいるのか、何が嫌なのか、そして、本当は何を求めているのか、求めていたのか、が分かってくることもあります。その意味では、前向きに生きていく為には、絶望や退屈のネガティブな感覚の中にもヒントがあります。

 

そして、そのような絶望や退屈のネガティブな感覚も含めて、自分は何を求めているのか、何に喜びを感じるのかを探る事ができます。そして、自分が深く求めている事が目的になっていくように感じます。どことなく、生きる目的とは、欲求や欲望などの感覚に基づいたもの、もしくは、まるで欲望そのもののように思います。

 

そのようにして、人は、絶望や退屈というネガティブな感情に向き合いながら受け止めつつ、そのようなネガティブな感覚とともに、欲望を自分の中で消化したものを目的として、それに基づきながら主体的な自己を形成して生きていくものだと思います。

 

人はみな、絶望や退屈を行き来して苦しみながら、欲望を持って生きています。絶望と退屈と欲望のサイクルの中にいます。そして、そのような感覚を通して主観的な体験をする事で生きています。感覚こそが生きる体験の源でありながら、それらに向き合って消化しながらそれを目的にして、主体的な自己を形成して生きていく、人生とはそういうものではないかと思います。