毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

コミットする習慣とコミットしない習慣。ブログ・瞑想・体操から考える。

習慣にはいろんな種類の習慣があると思うのですが、その習慣にしっかりコミットする習慣と、その習慣にそんなにコミットしなくてもよい習慣というのはあるのでしょうか。

 

幾つか習慣について挙げてみて考えてみたいと思います。ブログ、瞑想、体操について考えてみます。

 

そもそも、コミットするという事はどういう事でしょうか。目の前の取り組んでいる事を集中するというような事でしょうか。ただ何となく散漫な状態で取り組むような事とは違うように思います。そのような意味で、コミットするという事について考えてみたいと思います。

 

ブログです。ブログの習慣については、私の場合いつも自分が考えている事や思っている事を書いているわけですが、書くときはいつも集中しています。何となく書くという事はなく、どういう事を書こうかとか、書く順番とか、どうまとめるかとか。また、中長期的にも、こういうブログを書いていこうとか、ブログの内容の計画のような事についても考えてはいますが、書くときにはキーボードを叩きながら、ブログを書く事に集中しているように思います。その意味では、ブログは、しっかりコミットする習慣のように思います。

 

瞑想です。これは、言うまでもありませんが、コミットする習慣だと思います。心を静かにして、自分と向き合って、自分の内面に気付くようにして集中しています。身体の感覚にも気付くようにしています。コミットできないと瞑想は上手く言っているとは言えません。と言いながら、あまり集中できない事も多いので、実践的にはいつもコミットしているとは言えないかもしれません。でも、瞑想はコミットする習慣と言えると思います。

 

では、体操はどうでしょう。私は、基本的に毎朝、テレビ体操を10分程度やっています。テレビ体操は、テレビを観ながらやっているわけですが、ラジオ体操第一とか、第二とか、みんなの体操とか、こう毎日やっていると覚えてしまっていて、そんなにテレビに見ている事に集中していなくてもできます。そういう意味では、テレビ体操はそんなにコミットしなくてもよい習慣と言えるのかもしれません。

 

たった3つしか話していないので結論は出しにくいですが、身体を中心にする習慣はそれほどコミットしなくてもよいのかもしれません。頭を使う習慣はコミットしないとできませんから、ブログを書く、イラストを描く、などは、コミットする習慣と言えそうです。

 

ただ、コミットしなくてもいいからと言って、体操などただ身体を動かしているだけで、頭は他のところに行っていてもよいのかというと、散漫になるだけで、どうせ取り組むなら体操に集中してコミットした方が良いようにも思います。テキトーにやって、身体に運動の効果がなかったら勿体ないですし。

 

どことなく、習慣として取り組むならすべてコミットした方が良いように思うのですが、体操もそうですが、身体を動かすという事自体に意味がある習慣もありますし、あんまりいつもコミットしようとすると疲れてしまいます。実際的には、頭をより使い習慣はよりコミットして、身体を使う習慣はそんなにコミットを要しない、そういうものかもしれません。

 

習慣は、毎日の生活を形作っているものですから、コミットしたり、緩めたりしながら、緩急をつけてやっていく事がちょうど良いように思います。