40過ぎでも進化する為の実践ブログ

りべしんと言います。40半ばを迎えたサラリーマンが、今からでも進化できると信じて日々考えて実践している事を書いています。

今を生きるとはどういう事か。主観的体験と新しい創造。

「今ここを生きる」という言葉は、仏教でもよく使われる重要な事ではありますが、この事に関して自分なりに説明をしてみたいと思います。

 

今ここを生きるとは、今まさに目の前の一瞬一瞬に集中してコミットしていく事なわけですが、それは言い方を変えれば、主観的な体験の連続なわけです。

 

人間は、主体的な自己として生きていて、それは自分と自分以外の区別のないまま生まれてから発達していく過程で自他を分離しながら獲得してきた事ものです。主体と客体に明確な区別はあるかと言われると、そのボーダーラインは曖昧かもしれませんが、自分から遠いものほど体験は弱く、自分に近いものほど体験を強く感じられると思います。だから、より今ここを生きようとする事で、主観的な体験の強度を高くして、より生き生きと生きようとした方が良いと思います。

 

ユクスキュルの環世界という考え方では、生き物は外の情報を感覚器官を通して認識して自分特有の主観的な世界を形成します。ですから、感覚器官がそれぞれ異なる人間や他の動物、虫では、随分と環世界が違う事が想像できます。

 

人間は、感覚器官によって自分の中に入ってきた情報を人間の仕方で記憶にしていきます。その記憶の断片は、自分の一部となって自分の内部に組み込まれていきます。自分の中で、その記憶の断片のめくるめく想起の連続したものについて、考えたり、思ったり、何か感じたりしながら、自分特有の感情や思考を活用する事でそれらと相互作用をし、また新たな事を考えついたり、気づきがあったりします。そのようなプロセスによって、主観的な体験をしていきます。

 

また、自分の中に蓄積された情報が記憶化して自分の一部を形成し、その記憶と、また新たに入ってくる新しい情報を、自分の感情や思考に基づいた相互作用を通して、新たに主観的な体験をする事もできます。

 

その意味では、生きるとは、主観的体験をする、という事そのものです。主観的な体験なしに生きるという事はありません。

 

「今ここ」に含まれる意味は、自分の中の記憶の断片のめくるめく想起との体験というより、外から新たに連続して入ってくる情報との相互作用という体験の事を言っているのだと思います。目の前に広がる風景も、周りの人との触れ合いも、それらをただ無意味に過ぎ去る背景とせず、今まさに目の前で、ここで、しっかりと見て、味わって、思考して、自分なりの相互作用をして、主観的な体験をするという事です。

 

端的に言えば、今ここを生きるとは、新しい情報を自分の記憶と独自の相互作用によって混ぜ合わせて、そのような主観的体験を通して、新しい創造をしていくという事です。そこには、十分な生の体験があると思います。

 

自分の中のネガティブな記憶の断片の想起や、それに基づくネガティブな感情に、無意識に囚われ続ける事も主観的な体験でありますが、それがいわゆる仏教でいう「囚われ」であったり「執着」であったりするんだと思います。それはつらく苦しい体験です。それよりも、目の前で起こっている事に意識を向けて、その体験にフォーカスした方が良いと思います。