毎日の習慣や哲学の実践をつづる40代ブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けている40代です。

他人を責める。不安感は快楽より瞑想で。

私はいつも、”不安感”とか”つらさ”をテーマにお話しする事が多いのですが、それは自分がおそらく不安感を強く感じやすいからだと思っています。他の人との比較は難しいので、その程度は分かりませんが、少なくとも自分にとっては、不安とかつらさは、生きていて問題になります。

 

私は妻と二人で暮らしているのですが、時折妻を責めてしまってもめてしまい、妻に悲しい思いをさせてしまう事があります。その後、しばらく振り返って原因を考えるのですが、ひとつに自分の不安によるものだという事を気付かされます。そして、妻に対して非常に申し訳ない気持ちになるのですが、後悔してももう遅い、といつも思わされます。この事に同意できる人は、主に男性に、いるのではないかと信じています。

 

その事に気付いて自分になりに絶望するのですが、それも相手にとっては意味がないので、最近は、出来るだけ早く心を素直にして、原因を自分なりに説明して謝るようにしています。この繰り返しにも、自分に軽く絶望しているのですが、このような事が起こるたびに反省し、何とか成長しようと試みています。

 

自分の事について考えると、元々不安感が強いように思います。不安の記憶は、脳の扁桃体が司っていて、どうも自分の偏桃体が敏感なように思います。過去に大きなトラウマにあるような体験はしていないと思うのですが、もともと自分が持った性質なのか、子供のころから不安に思う環境で育ってしまったのか、不安になりやすい傾向を持っている事は確かです。Highly Sensitive Person(HSP)について調べたりすると、自分は傾向としては持っているように思います。

 

そして、自分の人生をより良くしたい、生活を良くしていきたい、仕事も上手くいくようにしたい、人間関係も良好にしたい、色んな事について自分にとって快適になるようにしようとしてしまいます。もちろんそれは普通のようにも思うのですが、自分が快適になる事について、自分の思い通りにしようとし過ぎるようにも感じます。

 

ちょっと良い事があったり、良い人間関係が出来たり、仕事で成功したりと、そういう心地良い事があると、さらにそれを求めようとしたり、いつもそのような快を得られる状態にいようとしてしまいます。快を得ようとしたり、快を得る期待感を常に持っていたりすると、いつもドーパミンの快楽物質にドライブされていないといけないようになってしまいます。

 

一方、不安感は、漠然とした不安感から、小さな不安感まで、いつでも湧いてきますので、それがたまってくると、ドーパミンでドリブンして乗り切ろうとしてしまいます。そして、何事も自分の思い通りに、人生も思い通りに動かそうとしてしまいます。それで、それが思うようにいかないように感じたとき、ドーパミンによる快が得られないので、その不快に耐えられず、特に妻のような近い人のせいにして責めてしまうのではないかと思います。

 

大きい不安から小さい不安まであらゆる不安が押し寄せてきて、それらを快楽でどうにかしようとしてできなくなって、他人を責めてしまう。とても良くない仕組みです。原因は、自分が不安になりやすいという事だと思います。

 

そういう時は、たいてい、瞑想をするように、内省する事によって自分の不安感に気付き、そしてそれを認めて受け入れる。そうする事によって、自分の不安感が落ち着いてきます。常日頃から、そのような不安感に気付けていれば、その場で落ち着く事が出来て、不安感も蓄積されず、他人を責めずに済むように思います。

 

実際、自分の不安感を認めて、自分でしっかり受け止めてあげると、静かな快適さが取り戻されて、ドーパミンにドリブンされるような快を求める感じにはなりません。

 

そういう事もあって、極力、自分の状態に気付くようにしています。最近は瞑想を毎日行っていますが、それはそういう理由です。まだ、瞑想に上手く集中できているわけでもなく、自分の不安感に十分に気付いてあげたりできているわけではないので、時に不安が高まりますが、それでも以前より、不安をハンドルできるようになってきています。

 

自分を自分でハンドルして生きる。自分の主体性の弱さを毎回気付かされつつも、何とか自分の不安感を自分自身でハンドルできるように生きていきたいと思っています。