毎日の習慣や哲学の実践をつづる40代ブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けている40代です。

瞑想での気づきと実践。感覚の世界・意識・自己

瞑想をはじめて三週間以上経っているわけですが、瞑想の状態に変化を感じたので、お話ししたいと思います。

 

基本的に、私は呼吸に集中するところから瞑想に取り組んでいるんですけど、鼻に息が通る感触から、身体の痛みや頭の締め付けなど、多くの身体の感覚に、集中して気付けるようになってきました。そして、以前は、瞑想中ずーっと思考し続けていて気付いたら15分経っていたという事がよくあったのですが、思考よりも頭の中とか身体の中とかの感覚への気づきの範囲が広がったような、オーバーに言うと、感覚の世界にいるような状態になるのを感じました。どことなく、以前よりも深く瞑想できている感じです。

 

そこで、瞑想がより良い状態になってきた気がしたので、幾つかお話ししたいと思います。①周りの環境に対する体外の感覚、②体内の感覚、③体外の感覚と体内の感覚、④感覚の世界と意識・注意、⑤静かな環境での瞑想の実践、についてお話しします。

 

まず、周りの環境に対する感覚についてです。この後、下の方で、体内の感覚の話をするので、ここでは”体外”の感覚と表現しています。瞑想をしていると、感じるのは周りの環境のノイズ、音です。私は、リビングで窓は閉めたままカーテンを全開にして、外に向かって椅子に座り、瞑想を行っているですが、音がとにかく耳に入ってきます。空調の音、家の中で人が何かしたときの物音、とにかく色んな音です。そして次に、身体の表面というか、皮膚の感覚もよく伝わってきます。陽の光を浴びているので、陽がさした時に温かいなどの感覚もよく感じます。一方、口の中の感覚も口を動かしたときは感じますが、味覚はあまり感じません。匂いも、そんなに感じません。そして、目を閉じていますから外の視界は当然見えませんが、実際瞼は閉じていても目自身は見ていますから、何かイメージが目の前に広がっています。そのような事で、自分の周りの環境から来る体外の感覚はほぼ、聴覚と触覚からの感覚だという事です。もし目を開けていたら、ほとんど視覚なんでしょうから、感覚を抑制したいとしたら目は閉じるべきであることはよくわかります。

 

そして、体内の感覚です。私は眉間にしわが寄りやすく、いつも、目の上の眉毛の奥のあたりが疲労感のような不快感が常にあって、その意味で、頭の不快感や痛みという感覚が体内の感覚としてまずあります。そして、首、肩、腰の痛みも感じます。胸やお腹の感覚もあります。皮膚の表面ではなく、内部です。さらに、手や足にも感覚は認識できます。そのような感覚は、瞑想に上手く集中している時、思考や言葉の断片にそれほどまみれていない時に感じる事ができます。

 

そのような意味で、体外の感覚と体内の感覚を合わせて考えますと、明らかに、体外の感覚の方が、体内の感覚より強度が強いです。何か音がすると、すぐそちらに意識がもっていかれて、さっきまで体内の感覚に集中していた意識が失われます。だから、瞑想に入って、心を静かにして、意識的な頭や身体に注意を向けられていると瞑想が上手くいっているように感じます。

 

そのような事から、瞑想中、ほとんど、感覚の世界の中にいるという事がよく分かります。聴覚や触覚の体外の感覚が大半で、粗く強度の高い感覚の世界としてあって、体内の感覚が繊細で強度の弱い感覚の世界としてあります。どことなく、体外の感覚世界は、自分の世界の感覚ではない、外的な感覚世界で、体内の感覚世界は、自分の内的な世界という感じです。だから、瞑想に集中していく時、目指しているのは、自分の外的世界を排除して、内的世界に意識や注意を集中させていく事のように思います。

 

この時、明確に分かる事は、感覚と意識・注意は違うという事です。私の在りかは、感覚ではなく、意識や注意に在るように感じます。意識や注意に在る自分が、感覚の世界を認識している、気付いている、観ているような感じです。おそらく、この状態は、”気づき”の状態の事で、サリエンス・ネットワーク(SN)の脳のモードだと思います。感覚の世界は、この場合、SNの脳のモードに意識が置かれると、体外の感覚に基づく外的世界というより、内的に広がる世界だと思います。体感的に、この状態に深く入れたとはまだ言えないように思いますが、感覚の世界を広い範囲で認識できたように感じました。

 

英語で気づきとはAwarenessと言って、よくSuper-awarenessと本やインターネットで見ますが、まだSuper-awarenessの状態には至っていないんだろうなと思います。それでも、そういう内的な感覚世界に、思考や言葉の断片が多少集中の妨げになりつつも、意識や注意を向ける事が出来ていたという認識は、瞑想が少し上手く進むようになったのかなというように感じる事でした。

 

そのような気づきから、瞑想にどのように取り組む事が良いのかという事を考えると、明らかに、”静かな環境で行う”事が重要であるという事が再認識できます。体内の感覚に基づく内的世界に、それらと区別して意識や注意を向けようとする時、体外の感覚は明らかに妨げになります。体外のノイズや音、ましてや、視覚情報は、感覚としてあまりに強く、極めて受動的に、自動的に反応してしまいます。そうすると、容易に意識が持っていかれて失われます。内的世界は静かな環境の中ではじめて現れてくるもののようです。うるさい場所では、静かな内的世界は現れません。そして、意識や注意にも集中できません。私が言うまでもないですが、瞑想に取り組むというは環境からの体外の感覚のない静かな世界を整える事が大事だと思います。

 

そして、呼吸瞑想です、呼吸瞑想では、鼻に息が通る感触や心臓の鼓動にも意識を集中させますから、体外の感覚から体内の感覚へ意識がつながっているような感じで、それで瞑想に有効だと思います。周りの環境に少しノイズがあったり、頭の中に思考や言葉で多少まみれていたりしても、呼吸から瞑想に入る事によって、意識を集中させやすくなると思います。

 

そのような事から、動物から人間への進化の歴史を考えたとき、SNの脳モードである意識は、感覚の世界の中から生まれたのだろうかと想像してしまいます。猫やフクロウをはじめとする動物が、真っ暗闇の中から、目だけ光らせてじっと何かを観ている様子などは、まさに外的世界の感覚や内的世界の感覚に関係なく、ただ”意識”が感覚世界を観ているように思えてきます。そのような感覚世界の中でただ身を置くという営みが、意識が芽生える原始的な営みだったのではないか、そして、感覚世界を観る”意識”こそが”自己”や”私”であり、その時初めて主体的自己が生まれてきたのではないか、そのようにも感じてきます。人間は、セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク(CES)の脳のモードを発達させて、思考や言葉で言語や論理を操る方法を獲得してきましたが、それに偏り過ぎて、原初的な自己、意識をも失いがちになっているのではないだろうかと思います。

 

現代の生活は忙しく、もはや、デフォルトモード・ネットワーク(DMN)やCESの脳モードの区別なく、SNの脳モードも埋没してオーバーウェルムドした状態になっている、我を見失っている、というのが、私たちの現状ではないでしょうか。そのようなわけで、感覚の世界を取り戻して、より豊かな世界、人生を目指したい、そういう思いで、私も瞑想に取り組んでいるというわけです。

 

まだ瞑想は始めて3週間と少し経ったばかりなので、全然十分ではありません。これからも瞑想を継続して、瞑想がどのような感じになっていくのか、どのような気づきがあるのか、楽しみしています。また、1か月を過ぎた事、お話しできることがあればと思っています。