身体も心も疲れていて、自分が何をしたいのか分からない。どうしても分からない。
何をしたいのかどころか、何をしていいか分からない。
意欲も湧いてこないし、何らかの希望も見えて来ないし、目標も目的も見いだせない。
考えようとしても頭は回らないし、いい考えが浮かんでこない。
でも、不安感とかつらさとか、そういう感情だけは感じる。
そういう時ってないですか。
人間というのは都合よくできていなくて、思ったように思考が働かないし、頭がクリアーになってくれなくていろんな事が決められない。
そもそも、その前に、心が動かない。心が動かないとは、動力が動かないということ。
人間は、他の動物と同じく、脳や頭で何かする以前に、身体が前提だということです。
身体が正しく機能し、身体が頭と連動してはじめて、自己啓発的な事が有効になったり、論理的思考が発揮されたり、自由意志が実行性を持ったりするのです。
人間は、身体が中心というわけです。その意味では、身体中心主義ということです。
頭より身体、思考や論理より、感情や感覚。
意思や目的より、感情や情動です。
自分のポテンシャルを発揮するためには頭で考えて、何をするか決めて、責任をもって主体的になって行動する事が確かに大事です。でも、その前に、それらは脳や頭がすることで、脳や頭にまともに動いてもらうためには、身体が大事です。
いかに、身体を開放するか。
本当は身体は感傷的に気分になりたいのかもしれません。
もしかしたら、泣きたいのかもしれません。
それは、論理や理屈ではないのです。
頭では分からなくても、身体は無意識のレベルで感じています。
むしろ、頭でどうにかしようとして、自然な身体の反応を邪魔していたりします。
いかに、身体を感情にゆだねるか、です。
自分が思っているより、思考や論理、言語は、いわゆる、論理的ではありません。
論理とは、人間の思考の方法の事を言っているだけで、そこに厳密な法則や真理はありません。脳の機能によるだけです。
それよりも、身体の感情の方が、人間にとってより正確に自分をとらえています。
人間はそもそも身体から成っています。その上に脳があって、身体の活動を前提として脳は活動しています。
何をしたいか、していいか、分からなくなったとき、途方に暮れているとき、それは、頭で何とかしようとしているから。そして、頭では解決できなくなっているから。
そんなときは、身体に身をゆだねることを思い出してください。何か指針が見えるまで時間はかかるかもしれません。身体が出す指針は、想定外の事かもしれませんが、それが頭で理屈で考えるから想定外なだけです。
身体に任せてください。感情の浄化が必要なのかもしれないし、悲しみを抱きしめる事が大事なのかもしれません。その答は決して論理的ではないだろうし、頭や脳でわかるようなものではありません。
身体は、頭よりも、自分の問題解決にとって、多くの答えを持っています。頭は期待しているより役に立ちません。それが人間です。身体を開放させて、時間を気にせず、ゆだねてみましょう。