毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

上手くいかない時は諦めてやめる。気が付いたら前に進み始める。

上手くいかない時は、とにかく今やろうとしている事をやらない。これに限ります。今は上手くいかないパターンにはまっているんです。どうしたってうまくいきません。なので、やめるんです。

 

それは体調が悪いせいかもしれません。身体が疲れているせいかもしれません。何の関係で、体調の悪さや身体の疲れによって上手くいかないのかはよく分かりませんが、上手くいかない時というのはそういうものです。自分に見えない要因によって、上手くいきません。

 

また、それは考え方が間違っているせいかもしれません。自分の中では凄く論理的なはずで、凄く合理的なはずの考え方も、実は間違っているかもしれません。むしろ自分には気づかない間違っているその考え方によって、当然のごとく上手くいかないだけかもしれません。そんなときは、いかに論理的且つ合理的に思える考え方もすぐさまやめて、むしろそうではない考え方に変える必要があります。

 

もしかしたら、自分とは関係のない要因によって上手くいかないのかもしれません。自分とは関係ないけど、他の誰か、他の何かの明らかな要因によって、正しく上手くいっていないだけかもしれません。そんな場合は、いくら自分で何とかしようとしても上手くいくわけがありません。自分ではない要因で上手くいっていないわけですから。そんなときは即刻上手くいくようにしようなどという事を諦めて、明日を待つべきです。明後日でもいいかもしれません。そういうのも、人間界においてはよくあります。

 

とにかく、上手くいかないんだからしょうがない。潔く諦める。潔くやめる。それが人間の方法です。急ぎたい時ほど急がば回れです。急げば急ぐほど、求めているものは遠のきます。人間というのは不思議です。でもそういうものです。

 

諦める事は決して悪い事ではありません。仏教でも、諦念という良い事があるように、今の上手くいかない事態を認めて受け入れる。大きな断念を受け入れる。その事は自分を前に動かします。大きな断念、大きな諦念によって、前進する事を諦めた時、逆に物事が前に動き始めます。ですからとにかく、今上手くいかないこの事態を受け止めて、諦めるべきです。

 

上手くいかない事は決して悪い事ではありません。それは何らかに対する執着かもしれませんし、囚われかもしれません。上手くいかないなら上手くいかないままにして、とりあえずやめて、諦めましょう。急ぎ過ぎてはだめです。どのようにしても動かない重たい石は放ったらかしにして、諦めましょう。気が付いたらその横のちっちゃな石ころが動き始めます。それをゆっくり待ちましょう。

自分を形作っている「縁」を変える事でパフォーマンスを上げる。

世の中には凄く元気な人がいます。睡眠時間が短くてもずっと動ける人とか、仕事でも仕事ではない事でも高いパフォーマンスで色んな事が出来る人とか。スーパーマンみたいな人です。

 

一方で、凄く疲れやすく、パフォーマンスが全然出せていない人もたくさんいます。人って、どうしてこうも違うんだろうと不思議に思ったりします。

 

人にはそれぞれ生まれ持ったものがあって、それによって人それぞれのパフォーマンスは決まっている。そのような考え方があります。環境より遺伝みたいな話もそれに通ずるのかもしれません。または、「蛙の子は蛙」みたいな話もその一種なのかもしれません。

 

でも、私が思うのは、その意味では、遺伝より環境というのに方向性としては近いのですが、ちょっとした「ボタンの掛け違い」みたいなもので、誰にでも高いパフォーマンスは発揮する可能性はあるのではないかと思っています。

 

私は諸法無我的な考え方が好きで、ほぼそれと同じ事を言っていますが、人は色んな縁から出来ています。それを仏教では縁起と言っています。縁起とは、原因というような意味で、人は様々な原因や関係性から出来ていて、永遠に変わらない本質を持つ自分という実体は無いという事です。諸法無我です。

 

ずっと上手く言っていないと思うなら、今の自分を形作っている何かをやめてみたらいいと思います。その何かという良くない縁を切ってしまうという事です。良くない縁は、良くないパターンを作り出してしまいますから、それが無くなれば、そのパターンが失われて良いパターンに変わっていく可能性があります。

 

人は、あらゆるものから成った縁の断片の集合体みたいなものですから、あらゆる縁の断片のうちのひとつでもふたつでも取り除いてやれば、その事によって自分という集合体の形は変わっていきます。

 

縁とは自分自身を成り立たせている全てです。何の縁を変えたっていいんです。捨てたっていいんです。それによって自分自身は変わります。自分を作っているパターンが変わります。

 

自分のパターンを決めている大きな部分の縁を断ち切ってもいいし、小さな部分の縁を断ち切ってもいいんです。それによって自分は変わります。また、違う縁を加えてもいいんです。それが自分を変えるきっかけにもなるし、新たな縁を生んで、その事がさらに自分を変えるきっかけにもなります。

 

そのようにして、縁を変えていく事によって、疲れやすい自分やパフォーマンスの出ない自分を変える事が出来ます。自分を信じて、縁を上手く使って生きていくのが良いと思います。

諸法無我な人間。いかに感情が乱れ、頭が散漫になっても、今この瞬間を乗り切る。

感情が乱れたり、疲れを感じたりする時があります。頭も上手く働かない、計画通りに進まない。そんなときはとにかく今この瞬間を乗り切っていく事です。

 

諸法無我。色んな断片から成る私たちは、色んな要因によって頭が散漫になったり疲れを感じたりします。そして何より問題なのは、その要因が何なのかよく分からない、特定できないという事です。なので、どうにも手の打ちようがなく、どうしてよいか分からずに佇んでしまいます。

 

そのような状態が持続すると、あまりのパフォーマンスの悪さに、どんどんやる気も無くなって実質何も出来なくなってしまいます。そんなときは、根本的な手を打とうとせず、とにかく今をやり過ごす。今のこの瞬間を乗り切る事です。

 

1日に、1つでも何かが進めばいいんです。ちょっとした事でも1つ進めばそれで十分です。後で振り返ってみると、結局この1つの進歩が重要である事に気付きます。たったひとつ、ちょっとした事をひとつとにかくやる。それだけでいいんです。

 

感情の変化は今この習慣、無理に受け止めなくていいんです。疲れを感じて頭が回らない時、この頭の状態について今この瞬間、悩まなくていいんです。無理に解決せず、やり過ごす。乗り切る。あれこれ考えるのは1日が終わる頃でいいんです。場合によっては明日でもいいし、さらに言えば週末でもいいんです。今である必要はないんです。

 

今この瞬間、頭が回らないのは、もしくは、疲れを感じるのは、または、感情が散漫になるのは、今この瞬間に原因があるわけではないんです。昨日のせいかもしれないし、おとといのせいかもしれません。他人のせいかもしれません。色んな要因から成っています。諸法無我ですから、その要因は明確する事は出来ないんです。だからとにかくやり過ごす。とにもかくにもやり過ごす。今日という日を、どんなに頭が乱れていようと、パフォーマンスが低いと感じられようと、やり過ごすという事がどれだけ自分を前にムーブオンしてくれるか。

 

人間の仕組みというのはそんなに単純ではありません。いつの間にか、よく分からない要因の断片のようなもので今という状態を経験し、そして、いつの間にか、よくわかない要因で今という状態が解決されています。乗り切っています。そのような謎な人間の性質を引き受けて、でも、決してそんな事で諦める必要もなく、時が経つのも味方につけて、とにかく前に進んでいくんです。それが諸法無我である人間ではあり、人間の方法です。

1日は色んな体験するだけの十分の時間がある。

1日は短いようで長い。色んな事を体験するだけの時間はたくさんある。そのように思います。

 

1日を過ごす間、頭の中で色んな事を考えているし、色んな事を感じています。これらの体験を無いものにすれば時間はあっという間に過ぎ去ってしまうかもしれませんが、そのひとつひとつの体験を十分に気付いて感じるなら、その時間はとても長く、十分すぎるほど長いと感じられると思います。

 

その長い1日の中の色んな体験を思い出してみると、楽しかった体験や良かった体験が思い出せると思います。例えば昨日の事を思い出してみると分かるように、色んな体験があると思います。それは大それたことではないかもしれないけど、そのひとつひとつをよく思い出してみると、どれも思考と感情の記憶が入り混じっていて、体験としての濃さはそれなりにあると思います。

 

そういった体験は、体験している真最中にはそれを体験しているとは感じないかもしれません。その時はその時を過ごす事に注意が向いていて、そのような体験をしているという事を実感する暇などなかったかもしれません。

 

でも、その体験を後になって思い出してみると、確かにそのような体験があった事を思い出せると思います。その体験はとても貴重で、その事から色んな事を感じ、フィードバックを得る事が出来るように思います。

 

なので、時折、何も気づかずに過ごしてしまった体験について思い出そうとしてみるのは良いと思います。せっかく貴重な体験をしているのに、気付かないまま忘れ去っては勿体ないです。

 

一度体験した事を、後になって、客観的に体験し直す事は、一度目に体験したときとは違った新たな体験にもなると思います。一度目に味わった体験とは違った、新たな味わいを感じられるかもしれません。

 

人は体験から学ぶことはとても多いです。体験している最中では、その体験の意味や重要性を感じられない事は多いです。ですが、その体験を通して、多くの事を学びます。それが学びというものです。学びは喜びでもあります。どんな体験も得るものがあり、それこそが体験の喜びでもあります。

 

そういうわけで、1日1日の体験を時間が出来たときに思い出し、そこから色んな思考や感情を思い出してみましょう。フィードバックしてみましょう。多くの学びがあり、多くの喜びがあります。一度目の体験とは違う新たな体験、新たな味わいがあります。そのような意味でも、1日は十分すぎるほどの貴重な長い時間があります。1日の体験を大事にしましょう。

自分の中の想像の場所を言葉を紡ぎながら散歩する。

自分の中で想像しながら言葉を紡いでいくという事で、例えば、今自分が立っているこの地点から見える景色をスタートとして、少し遠くの、少し高いところに見える山まで歩いていく、そんな想像を言葉にしてみようと思います。

 

付近には特に人の気配もなく、家や建物も無くて、ただ草が生えた場所だとします。その周辺には、背の低い丸っこい木々がたくさんあって、視界全体は土の茶色や草の薄い緑や木々の少し濃い緑が混ざったような色合いになっています。上半分の隙間の視界は、空は多少雲がありつつも青く広がっています。このように言葉を紡ぐと、何か夏っぽい季節のように感じられます。

 

夏っぽい季節というのは特に日本だと暑く、湿気も感じられます。周りにうっそうと草木があるんだとすれば、それらから水気の含んだ熱い空気を肌で感じます。

 

そんな中、そこから見えるちょっと高い場所に向かって歩いていくわけですが、そこまでの周囲は低い草木と、ちょっと背の高い草木と、そして、少しの土の斜面が見えます。その土の斜面の上がこの辺りで言えば一番高い場所で、そこまで歩いていくというイメージです。想像の中の景色では、そこまでの距離は割と近く、距離にしても数十メートルといったところです。高さは定量的には分かりにくいですが、感覚的には十メートルも無いんだろうという感じです。その意味で、想像している付近の空間は、そんなに広い空間ではありません。少し歩けばすぐに到達できる、その程度のエリアです。

 

想像上のこの場所は、人の気配が無いとは言え、人はよく通る場所ではあり、明らかに通り道になっていると言えます。草木もそのように並んでいるように見えます。歩いていく場所は両側に草木がありますが、自然に左側に沿って直角に曲がって進んで行って、その先を通って高いところに辿り着ける、そんなように感じられます。高い場所は歩きはじめてしばらくは常に見えますが、そこまでの途中の道は草木に覆われて見えません。なので、草木に覆われた、自然にあるその通り道に沿って入っていって、その後、視界からは閉ざされた草木を通り抜けた先にきっと目指す高い場所はつながっているんだろう、そのような想像をしながら分け入っていく。そんな感じです。

 

実際にそのうっそうとした草木の中に入っていくと、その場所はそれなりに人が通れる空間があって、草は周辺に膝下程度に広がりつつも歩いていくには難はなく、意外とその先に歩いて上っていける斜面が50cm程度の幅を持っているという事が分かります。その付近は木々のおかげで多少暗く、涼しくも感じられます。そして、やはりその斜面の通り道は人がこれまでにも多く通ったであろう道で、通り抜けるのは自然な感じがします。人は少し高いところがあると、そこを目指して歩いていくんだという事を感じさせます。

 

その50cm程度の幅の道を歩いて上がっていきながら、多少右にカーブして進んでいくわけですが、その道の両側は草木は少しで、大部分は黄土色の土の斜面になっており、その間を進んでいく、そんなイメージです。他の道を通る事も出来るんでしょうけど、やっぱりこの道を通っていくのが自然な感じで、違和感なく前に進んでいって目指す高い場所に辿り着けるという事に期待している、そんな感じで少し勾配のある斜面を歩いていく、そんな感じです。

 

そのようにして気が付いたら到達していたその高い場所は、普通にその場所に立つ事が出来る場所で、そこから見える視界は雲で覆われた真っ白な感じだったり、でも、隙間から見える空の青さだったりもします。そして、想像の中では、自分が居たであろう場所の方向には何か景色めいたものがあるかというとそうでもなく、想像以上の景色が広がってもいないただの高い場所であったという感じです。

 

想像上の高い場所に向かって歩いていく、そのような設定で言葉を紡いでいくと、案外到達にしたその先のイメージは何も広がっていない、何も無いというあたりが、やはり想像上の事であったという感じがします。想像で紡いでいく世界は、説明できることはその想像の範囲で可能ではありますが、より緻密でより広がった世界を言葉で説明するには、想像する力が必要なんだろうという事を思わせます。一方で、その先の想像上の視界は無限で自由な広がりを持つとも言えるかもしれません。

 

ちょっとした言葉を紡ぐ散歩でしたが、言葉が足りたようで、でも足りないようにも感じます。もっと言葉を足せば想像はその構造を明確にできるし、ち密さも多様さも説明できる気がします。

 

こんな感じで、もっと色んな想像の場所を言葉を紡ぎながら散歩したい、そんな気がします。

言葉を紡ぎながら想像の道を進んでいく。

何も考えずに、思いつくままに言葉を独り歩きさせる。そういう文章の書き方っていうのはどうなんでしょう。言葉を、自分の中で想像する道中で、松明を持ってその先の暗がりを言葉で照らすようにしながら進んでいく、そんな感じな気がします。

 

別にあらかじめどのような言葉をどのように並べていくかを準備していなくても、進んでいくその道を、一語一語照らしては一歩踏み出し、勝手に照らし出された道を進む場合もあれば、幾つかの道の中から言葉とともに一つの道を選んで進んでいくような場合もある、そんなような気もします。

 

言葉を紡いでいく時、紡ぎ終わるゴールをある程度想像して筆を進めていく事もあれば、明確なゴールではないけど、「あの辺り」に向かう事をイメージして筆を進めていく事もあります。その意味では、ただ目の前にだけちょっと広がる想像する視界を松明で照らすだけで進んでいくというのは違うかもしれません。この場合は、言葉を紡いで進んでいきやすいようにも思います。

 

また、1つのゴールだけではなく、幾つかの通過していく場所をイメージしながら、1つ目の場所をまず言葉で辿って行って、そこに到達したら2つ目の場所にまた言葉で辿っていく、そのようにして、幾つかのポイントとなる場所を辿った後に、最後にゴールにたどり着く、そういう言葉の紡ぎ方はより進んでいきやすいかもしれません。

 

その意味では、もう少し、言葉を紡いで進んでいくエリア全体を、その各ポイントで何をしたいのか、何を言いたいのかを、より想像して構築している方が、やはり進んでいきやすいのかもしれません。まずは、あのポイントまで言葉を紡ぎながら進んで、そのポイントに到達したら、そこで表したい言葉をそこにおいて、そして、次のポイントまでまた言葉を紡ぎながら進んでいって、そしてそのポイントでまた表したい言葉を置いていく。そのようにして、幾つかのポイントで、重要なメッセージとなる言葉を置いて回ったら、最後に、ゴールとなるポイントまで言葉とともに進んで行って、最も表現したいゴールにふさわしい言葉を置く。そんな書き方が良いのかもしれません。

 

場合によっては、最後のゴールで最も言いたい事を置いた後に、安心して、全然違う言葉を置いていく、そんなときもあってもいいかもしれません。言葉として言い切った後は気が抜けて、そんな事もある気がします。

 

いずれにしても、言葉はとにかく紡ぎながら進んでいく事が出来る松明のようで、足跡のようで、道を開いていくもののようで、とても便利です。言葉を頼りにしていけば、どこにでもいけるし、どのようにも歩けるし、どのようにも表現出来ます。その意味では自由です。

平日の為のしわ寄せとしての週末ではなく、週末は週末としての特別な日に。

週末になると、平日の間に蓄積していた色んなストレスや疲労や感情が漏れ出してしまいます。平日を過ごしている間は気付かずに堪えて過ごしていたのか、週末を迎えるとどっと疲れが出たり、気持ちをダダ洩れさせたくなったり。なかなかに普段はどんな過ごし方をしているのか、不思議になります。

 

週末は気持ちを切り替えて、平日の仕事のことなど忘れてスカッと過ごすぞ、と思っていたのに、やっぱりそれは容易にはいきません。何か平日の間に整理をつけられなかった事のつけのようなものの為の処理の時間が、週末にあてられてしまう。何とも言えない気持ちになります。

 

一体どこでそんなに感情をため込んでいたのか、押し殺していたのか、そんな色んなものが、ごちゃごちゃな形で後になって顕在化してきて、その整理の為に時間はやっぱりそれ相応に必要になってしまう。そんな週末です。

 

かと言って、平日のその日その日に感じた事や受け取った事を即座に自分自身に感じて、その場その日で対処しようとしていたら、きっと平日の1日1日は、乗り切れなかったのでしょう。毎日、朝は起きないといけないし、決まった時間に寝ないといけないし、昼間は昼間で、仕事に出かけて帰ってこないといけないし、そのような循環をある程度滞りなく保とうとすると、どうしたって週末にそのつけというか、そのしわ寄せが行ってしまうのはしょうがない気もしてきます。

 

本当は、平日仕事をしたら、週末には仕事以外の事もしたいと思っているわけですが、なかなかにそうもいかないというのが、実際のところです。平日の仕事の循環を維持しようと思うと、気が付いたら、週末もその循環の重要な一部として使ってしまう。どうしてもそうなってしまいます。出来れば、平日の事は平日の内に、そして、週末は週末としての時間に使いたい。それが希望です。

 

ただ、このような事実に気付くと、改めて平日の過ごし方というのも分かってくるような気がします。いかに平日の分は平日に。週末は平日とは違う特別な日に。平日の為の週末、平日の一部としての週末、平日のつけとしての、しわ寄せとしての週末ではなく、週末は週末としての特別な日に。

 

平日は仕事をはじめとしてもちろん大切な時間。でも、週末だって大切な時間。平日の為に帳尻を合わせるために時間ではない。何とかして、この大事な週末の日を、平日に飲み込まれないように。飲み込まれないために。それが最近の悩みというか、課題というか。より良い週末の時間にしたい、今日この頃です。